シュリーフェン計画と兵站・2

 承前。ではシュリーフェン計画に基づく部隊の前進はどうやって支えられたのか。第1軍について言えば自動車補給部隊がその重荷を背負った。「結局のところ、オート麦と弾薬を運ぶうえで、我々は何度も何度も各輸送中隊に、主に自動車輸送中隊に頼ることを余儀なくされた」(Movement and Supply of the German First Army"http://ja.scribd.com/doc/103341441/Movement-and-Supply-of-the-German-First-Army" p217)。第1軍自動車輸送部隊の指揮官だったペッター曰く、「彼らは自らの任務を実行し1914年8月と9月に軍の前進を可能ならしめた」(p197)存在だった。時を追って「馬匹の不足との対比でトラックの数は増加」(p71)し、作戦後半になると自動車への依存は高まった。
 だが第1軍の自動車輸送部隊が機能することができたのは、ある意味幸運に恵まれたからであった。そもそも「最初に計画されていた自動車輸送中隊の割り当ては不適切であった」(p40)。最も長い距離を移動する第1及び第2軍には他の軍よりはるかに多くの自動車輸送中隊が所属していたが、それでも前進が始まった当初の段階から「12個の自動車輸送中隊では必要に対して不十分だった」(p190)ことが分かっていたという。そこでさらに6個の中隊が追加されたわけだがそれでも足りず、ペッターは「[通常のトラックより小型の]1トン、1.5トン、2トンのいわゆる配達用トラックを使い、そこから12個の新たな中隊を編成した」(p191)。
 それだけではない。第1軍は車両不足を解消すべくアーヘンで「志願自動車輸送廠」を編成(p40)。トラックだけでなく乗用車やバスまで含む約300台で構成されたこの部隊は弾薬、食糧及び怪我人や病人の輸送に使われた(p55)。正規のトラック中隊が1個中隊9台で編成されていた(p132)ことを踏まえるなら、単純に台数だけで見ると正規部隊よりもこの志願部隊の方が数が多かった計算となる。これら泥縄式で集められた自動車までフルに使い倒してようやく補給ができたわけであり、ペッターは「1914年においてドイツ野戦軍に割り当てられた自動車輸送部隊は、現代の戦争の需要に完全にそぐわないものであったことは明らかだ」(p190)としている。
 実際、自動車部隊は相当過酷な仕事を強いられた。規則によれば自動車輸送中隊は好ましい地形において平均1日100キロメートルの移動にとどめ、週に1日は修繕のために費やすことになっていた。だが実際はマルヌ戦後まで規則は無視され、彼らはしばしば24時間のうち2~3時間の休憩だけで仕事に従事。結果として居眠り運転による事故が増え、9月12日には60%のトラックが役に立たなくなったという。加えてガソリンの補給も決して順調ではなかった。列車は弾薬を優先したため毎週の新たな補給は困難で「概して失敗に終わった」(p196)。
 面白いのは、鉄道で生じた問題がトラックでも生じていたことだ。現場の部隊が車両を手元に置きたがった結果、鉄道の効率が下がったという話が伝えられているが、自動車輸送部隊でもすぐに弾薬を使わない場合、現場部隊は「荷物の受け取りを拒否し、代わりに自動車輸送中隊に対して彼らに追随し彼らの遅い行軍速度に従うよう求めた」(p194)。
 相次ぐトラブルにも関わらず自動車輸送部隊の活躍は第1軍の前進に大きく寄与した。彼らが「常に弾薬を食糧より優先して」(p177)輸送した結果、「[マルヌの]戦闘経過あるいは会戦後の状況に決定的な影響を持つような弾薬の不足はなかった」(p54)というのが第1軍の評価。第4軍団のジドー将軍も「[パンの]不足を除き、兵たちは全般に必要な量の食糧を受け取り、弾薬の補充もまた適切だった」(p123)と述べており、兵站部門の参謀長だったミュラー将軍も「個人的には弾薬補給について絶えず不安を感じていたが、国内から軍への補給業務は極めてよく機能していた」(p124)と話している。
 
 もっとも第1軍の評価がそのまま全軍へ広げられるかというと、話は別だ。第1軍自身が認めているように、彼らの手元にあった自動車輸送部隊の数は「他のドイツ各軍と比べて相対的によく配備されていた」(p132)のであり、加えて志願部隊まで計算に入れるなら、補給に関してはかなり恵まれた存在だったと見ていいだろう。
 シュリーフェン計画において兵站部門が極端な負荷に見舞われたのは、食糧や飼料問題もさることながら、弾薬の大量消費が要因として大きい。当初から「大量の弾薬消費があるだろう」(p3)と想定されてはいたが、ミュラー将軍によれば「前線における弾薬の大量消費は平和時の想定をはるかに超えていたことは明らか」(p124)だった。このため絶えず弾薬を前線に運ぶ必要が生じ、兵站部門はその仕事を最優先に取り組むことになった。自動車輸送部隊が充実していた第1軍はそのニーズにこたえられたが、そうでなかった他の軍がうまく機能したかどうかは分からない。
 またMovement and Supply of the German First Armyは第1軍の「弾薬の補給」がうまく行ったと述べているが、弾薬を撃ち出す火器そのものの移動については何も触れていない。彼らの任務ではないから当然なのだが、馬匹の受けたダメージは騎兵だけでなく大砲を運ぶ砲兵にも影響していた。たとえばクレフェルトは「マルヌの戦いの前夜には、他と同様に馬が牽引していたドイツの重砲兵は、決定的な数的優位を享受していた兵科の1つだったが、もはや移動についていけなくなっていた」(Supplying War"http://books.google.co.jp/books?id=Tu3XZTx_s84C" p125)と指摘する。
 PorchのThe March to the Marne"http://books.google.co.jp/books?id=SiCRnNwl3EYC"の中には「1914年8~9月にフランスを進んできたドイツ軍は、しばしば重砲兵がついてこられないことに気づいた――マルヌにおけるジョフルの勝利をもたらした主要原因の1つは、ドイツの重砲兵の数が欠乏していたことにあり、それによってフランス軍の75ミリ砲が初めて比較的自由に機動できた」(p233)との一文がある。彼が脚注で示しているのはFrederic HerrのL'artillerie"http://books.google.co.jp/books?id=5RBAAAAAYAAJ"(p28)。著者のHerr"http://fr.wikipedia.org/wiki/Fr%C3%A9d%C3%A9ric-Georges_Herr"は第一次大戦に参加した将軍だ。残念ながらL'artillerie自体はネットでは読めないが、ドイツ以外の同時代人がマルヌ敗戦の一因として兵站問題を指摘している可能性がある点は注目に値する。
 ドイツ側でも、第1軍という限られた範囲ではなく軍全体を見れば、マルヌでの戦闘力に不安を感じている向きはいた。HelfferichのDer Weltkrieg II. Band"https://archive.org/details/derweltkrieg02helfuoft"によれば、マルヌ会戦の時点でモルトケは「我らの前哨線がパリから50キロメートルのところにあることを認めた。『だが』と彼は付け加えた『我々の軍にはなお新たに前進できる馬がほとんどいない』」(p17-18)。補給が原因となった馬匹の問題が軍の戦闘能力に大きく影響していたことを窺わせる発言である。
 もちろん補給ではなく作戦の失敗、つまり右翼を軽視した参謀本部の(モルトケの)問題だとする意見もあった。グレーナーが典型(Wilhelm Groener, Officering, and the Schlieffen Plan"https://archive.org/details/WilhelmGroenerOfficeringAndTheSchlieffenPlan" p197-198)であり、第1軍のベルクマンも基本同意見だ。だがベルクマンは一方で「我らの戦力を再編する目的のため、窮余の策として8月末頃に作戦を停止する必要があった」(Movement and Supply of the German First Army, p231)とも述べている。急ぎすぎた前進の代わりに補給を含めた態勢の立て直しをしていればと考える人間は、現場にもいたのである。
 
 次回は結論。
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