シュリーフェン計画と兵站・1

 少尉さんから指摘のあった「現地調達を兵站の失敗と見なすようになったのはいつからか」という課題について、第一次大戦の例をいくつか調べてみた。まず最初に使うのはMovement and Supply of the German First Army"http://ja.scribd.com/doc/103341441/Movement-and-Supply-of-the-German-First-Army"。シュリーフェン計画で最右翼を委ねられた第1軍の参謀長クールと、兵站部門を担当していたベルクマンが記した本だ。
 第1軍司令官だったクルックが冒頭に紹介を記しているのだが、それによると「巨大な大きさの軍を生存させる現代の対策は、国内からの補充を必要とする」という「重要な真実」があり、著者らはそれを「兵士たちが戦場の資源を使って生きるというかつての習慣的で非組織的な習わし」と対比させて描いている(xvii)。どうやらドイツ軍は現地調達でなく国内からの補充を基本としていたようだ。ただし現地調達も「例外的かつ補充的手段ではあるが今日においても時々用いられる」という。
 マルヌ会戦後までの食糧補給についての著者らの評価は「おおむね全期間を通じて満足いくものだった」となっている。実際には時に食糧や弾薬の不足は発生したが「行軍の速さを考慮するなら驚くべきことではなかった」(p41)ようで、要するに許容範囲の事態だったと見ている。比較的うまくいった理由は「豊かな土地で1年でも好ましい時期に前進が行われたという決定的な利点があったから」(p42)であり、「兵たちが地域の資源で生きていくことができなかったなら、あれほど速い行軍速度は不可能だった」(p182-183)。
 事実、進路上にあった物資は容赦なく活用された。食料倉庫はブリュッセルに置かれ、8月22日には同市と周辺地域に対し少なくとも4個軍団の1日分をカバーする追加補給を有償で供給するよう命令が出されている。アミアンでは第4予備軍団がかなりの量の食糧を発見しており、同軍団の利用に供されている(p41)。第3軍団のランゲによれば、補給の負担を可能な限り減らすために、兵たちに宿舎や地域で発見した食糧を主に使うよう命じた。最初にベルギーを通っていた時期は食糧徴発は抵抗にあったそうだが、フランスに入ると大きなトラブルなく徴発できたという。ただしきちんと監視しておかないと、徴発は略奪になりがちで規律を大きく掘り崩した(p122)。
 つまり、本来は例外的かつ補充的手段であったはずの現地調達が、現場の部隊では主要な手段と化していたわけだ。加えて現地調達では難しいパンの焼成などは明らかに機能不全に陥っていた。第2軍団のルドロフによれば「前進の全期間を通じて兵には新鮮なパンと家畜向けの穀物が提供されなかった」(p122)というし、クールもパンの補給サービスが軍の前進についていけなかったことは認めている(p42-43)。それでもトータルで深刻な食糧不足に至らなかったことをもって、ドイツ第1軍は兵站がうまく機能したと判断している。
 それにしても時期がちょうど収穫に取り掛かる頃だったから良かったものの、そうでなかったらシュリーフェン計画はどうなっていたのだろうか。Stonemanが記したWilhelm Groener, Officering, and the Schlieffen Plan"https://archive.org/details/WilhelmGroenerOfficeringAndTheSchlieffenPlan"の中には1906年に参謀本部のグレーナーが行った調査が紹介されている。彼はドイツ軍が食糧と飼料を集めるのが難しい場合を想定して調査したのだが、その結論は「あらゆる責任者は全力で取り組む強い意思に支配されねばならず、そうすることで作戦が補給の問題によって鈍化しないようにすべきだ」(p177-178)というもの、つまり精神論だった。Stonemanは「グレーナーの自信と戦争に関する堅固なイメージは、参謀本部の計画がどれほど現実的であるかについて考えるのを妨げた」(p178)と皮肉交じりの評価をしている。
 
 だが食糧調達が「おおむね」であっても満足いったのは実は半分だけ、つまり人間向けの食糧だけだと思われる。馬匹向けの食糧不足は深刻な状態に陥っていた。クールによれば「[飼料となる]オート麦の不足は作戦の初期からあった」(Movement and Supply of the German First Army, p44)。騎兵部隊は軍の兵站部隊からは独立した補給部隊を持っていたようだが、作戦中そこから何度も第1軍の兵站部門への応援要請が来ていたのだ。8月14日、16日にそれぞれオート麦の輸送が要請されたが、それでも飼料不足は解消されず、20日には第2騎兵師団から「2日間も食糧と飼料がない」との報告が来ている。30日にも騎兵軍団から食糧不足で苦しんでいるとの報告があるなど、厳しい状況がずっと続いていた(p44)。
 騎兵部隊はさらに弾薬の補給にまで悩まされた。ルドロフは第2軍団に所属している騎兵部隊について「多かれ少なかれ常に弾薬不足だった(中略)そのため騎兵部隊は最終的に第2軍団にとって現実には重荷となっていた」と指摘している。騎兵用の輸送馬車も損耗していたようで、元からあった軍事用の馬車に加えて「すぐにベルギー由来の重い2輪馬車」(p121)が登場し、道路の混雑に拍車がかかった。クールの本では第1軍の兵站部門の話が中心となっており、別部隊である騎兵の補給部隊がどこまで苦労していたかについては他人事のように書かれているが、その本ですらいくつかの記述が出てくるのは実態の厳しさを示しているとも受け取れるだろう。
 騎兵部隊に焦点を当てた本になるとそうした記述がもっと増える。Die Deutsche Kavallerie 1914 in Belgien und Frankreich"https://archive.org/details/diedeutschekaval00pose"には、いかに食糧や弾薬不足に悩まされたかという話が繰り返し出てくる。例えば第2騎兵軍団。彼らは8月6日の時点で既に「オート麦不足が感じられる」(p12)としているし、8日には「橋梁が原因となった道路の運搬能力欠乏によって物資が追随できず、そのためかなりのオート麦がまたも不足している」(p14)。11日にも「騎兵軍団は緊急に休息と食糧及びオート麦の適切な補給が必要である」と悲鳴を上げているが、それに対する回答は「必要ならゆっくり移動し、回復しつつ現地調達せよ」(p20)というものだった。
 結局第2騎兵軍団は13日から「オート麦及び弾薬補給の欠如にまず対応するため全体に[その場に]留まり、敵のあり得る前進を第1及び第2軍到着まで食い止める」(p27)ことになった。その後も第2騎兵師団が19日に「騎兵師団自身の食糧縦隊の欠如が再び深刻に感じられた」(p30)としており、つまるところいつまでたっても騎兵部隊の補給問題は解決されなかったようである。
 第1騎兵軍団も深刻な問題を抱えていた。8月7日の時点で戦闘日誌には「特に砲兵が困窮した。しばしば軽弾薬縦隊に不適切な悪い馬匹が与えられ、早いテンポは使えなかった。結果として4頭の馬匹がオーバーワークで死に、他もほとんど移動できなくなった」(p40)と書かれている。馬匹の損耗が、騎兵だけでなく馬が牽引する砲兵にも深刻な影響を及ぼしていたことが分かる。
 砲兵だけではない。馬匹問題は実は兵站部隊にも影響を及ぼした。クールらによれば第1軍の兵站部隊には数多くの馬車があり(Movement and Supply of the German First Army, p138-142など参照)、それぞれが役割を持って物資運搬を担うことになっていたが、「馬が牽引する各輸送中隊は兵に追随することができず、はるか後方にいた」。そのため彼らは馬車を「単なる予備車両と見なし」、そして結局「我々が[マルヌ会戦後に]エーヌ川の陣地を占拠した時まで[馬車と]接触できなかった。様々な弾薬中隊と輸送隊はそれから追いついてきた」(p182)という。兵站部門においても前進中は馬車がほとんど役に立たなかったのである。
 
 長くなったので以下次回。
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