ラーガー

 ヴァーゲンブルクとかラーガーと呼ばれる戦術について前回記した。おそらく最初にこの戦術を採用したのはフス戦争だが、では具体的にいつの戦いで最初に使われたのだろうか。少し調べてみた。
 フス戦争に関する漫画を描いている著者のblogでは、1420年3月のスドムニェルシの戦いにその原型があると書いている"http://blog.livedoor.jp/koichi0024/archives/55571010.html"。逆に最新刊で紹介されているヴィトコフの戦いは、漫画ではラーガーが登場しているが「歴史上のヴィトコフの戦いではワゴンブルクは使われていません」"http://blog.livedoor.jp/koichi0024/archives/cat_50103986.html"という。
 ちなみに話が脇にそれるが、google bookでwagonburgを探すとたった67件しか引っかからない(wagenburgは10万件以上、laagerは15万件弱)のになぜこのblogで「ワゴンブルク」という表記が使われているのかというと、おそらくこちらのサイト"http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/tabol/tabol3.htm"が「ドイツ語で『ワゴンブルク』」と書いているためだろう。でもどう考えてもワゴンブルクはドイツ語ではない。英語とドイツ語を混ぜた造語と見るしかない。実際google bookの検索オプションでドイツ語文献を調べてみても、wagonburgで引っかかるのはeとoのスキャンミスなどの事例ばかりだ。
 閑話休題。スドムニェルシの戦いでラーガーが使われたという記述は他にもネット上で見つかる。例えば英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sudom%C4%9B%C5%99"には「彼らの側面は火縄銃を積んだ戦闘用の馬車で守られ」という表現がある。
 だがフス戦争について書かれた歴史書を見ると、どうもそうはっきりした話にはならないようだ。Francis LützowのThe Hussite Wars"https://archive.org/details/hussitewars00ltgoog"に書かれたスドムニェルシの戦い(p22-23)を見ると、確かにラーガーを組んだという話はあるのだが、火器を使ったとの記述はない。19世紀チェコの歴史家兼政治家(こういうの19世紀は多いよな)パラツキー"http://en.wikipedia.org/wiki/Franti%C5%A1ek_Palack%C3%BD"のGeschichte von BöhmenのDritten Bandes zweite Abtheilung."http://books.google.co.jp/books?id=tr0AAAAAcAAJ"にも「馬車」(p87)や「フス派のラーガー」(p88)という言葉は出てくるが、火器の記述はない。
 ラーガーにおいて火器が使われたとされているのは、1421年12月のクトナー・ホラの戦いだ。Lützowによればフス派は「装甲を施した馬車であらゆる方角を守り」、神に祈ったうえで「馬車に乗せた火器(guns)があらゆる方向の敵に射撃を始めた」(p106)と書いているし、パラツキーも「ボヘミア軍はヴァーゲンブルクで素早く自らを囲み、内側で防御を固め、外側の車両に大量の大砲を設置した」(p269)と記している。残念ながらどのような一次史料に基づく議論なのかまでは分からないが、1420年代の早いうち、まだジシュカが生きていたうちから、ラーガーと火器を組み合わせた戦術が実戦で使われていたと彼らは見ている。
 A History of the Hussite Revolutionの中に収録されている図版(p270)を見ても分かるのだが、15世紀初頭や前半にフス派が使っていた大砲(houfnice)や銃(hákovnice)の実物があるようで、この時代に火器が使用されていたことは間違いないのだろう。ラーガーとの組み合わせもおそらく事実だと思われるし、そうなると遊牧民相手に有効とされるラーガー+火器戦術の最も古い例はやはりフス派だったと見てよさそうだ。
 ただLützowは、以前"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54303082.html"に紹介したアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニの記述を「信頼できない」としている。特に批判の対象となっているのは彼の反フス派的な姿勢だが、軍事面の記述についても同じだ。ピッコローミニによればフス派の御者は「隊長の合図に従って素早く敵の一部を取り囲む」"http://www.deremilitari.org/RESOURCES/SOURCES/hussites.htm"という攻撃的な戦い方をしていたことになるが、Lützowは「そんなことは事実上不可能」(p26)と切って捨てている。あくまでラーガーは防御のための戦術だったという指摘だ。
 あと、フス戦争の一次史料を集めた本"http://books.google.co.jp/books?id=kpsAAAAAcAAJ"も発見、したのだがどうもチェコ語っぽい。読めねーよ。英語の一次史料集"http://www.amazon.com/dp/0754608018"もあるようだが、新刊本で333ドル超って凄い値段だなおい。
 
 フス派ほどではないが古い「ラーガー+火器」の事例は中国にもある。明史の巻92、志第68、兵4"http://www.angelibrary.com/oldies/ms/092.htm"に載っている正統14年(1449年)、土木の変の年に李侃が行った取り組みがこの戦術のきっかけになった。彼は車両を「鐵索聯絡」して敵を撃退したのだが、その時点では火器を使ったとの記述はない。しかし翌景泰元年(1450年)には銃を置いた車両を「鉤環牽互」し、槍砲や大小將軍銃を積んだとあるので、この時期までに「ラーガー+火器」という戦術が考案されていたのは事実だろう。
 こちら"http://koukisya.web.fc2.com/kayaku4.htm"によると、この戦術は後に明の名将、戚継光らによって改良され「車営戦術」として確立していったんだそうだ。フス派より遅れていることは確かだが、それでもかなり近い時期に大陸の反対側でもこの戦術が生まれたのは興味深い。フス派の戦いに関する情報が明にも伝わっていたのか、それとも必要に迫られて独自に思いついたのか、分かったなら知りたいところだ。
 ただしKenneth ChaseのFirearms"http://www.amazon.com/dp/0521722403/"によればオスマン軍はそれより早い1440年代にハンガリーからラーガー戦術を学び済みだったとか(p86)。そしてそのオスマンからムガールのバーブルが学び、またサファヴィー朝もチャルディラーンの敗北を通じて戦術を自分のものにした。中国はともかく、イスラム世界へのラーガー戦術伝播は元を辿ればフス派が淵源だったと見ていいだろう。
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