ナポレオン漫画最新号について。流石に前に書いたのと全く同じにはいかないと思ったのか、ビクトルの登場シーンが軒並み画面の端っこに追いやられているのに笑った。あとクロイセがしっかりウォッカを飲んでいる場面も。正直ちょい役だと思っていた彼がここまで動き回ることになったのは見事というほかない。これで満足して退場できることだろう。
「兵士諸君、私が諸君の全大隊を指揮する。もし諸君がいつもの勇敢さで敵の戦列に無秩序と混乱をもたらすのであれば、私は戦火から遠く離れた場所にとどまるであろう。だがもし勝利が一時でも不確かになれば、諸君は皇帝が自らを砲火に晒すのを見ることになる」
p441
連合軍司令部でヴァイローターが述べた「つまり敵の弱い右翼に5万4千人の兵を集中し攻撃するのです。しかるのち北へ向かいフランス軍を包囲します」という作戦に関しては様々な史料がある。古いところではシュトゥッテルハイムが会戦の翌年に出したDie schlacht bey Austerlitz"
http://books.google.co.jp/books?id=wFQUAAAAYAAJ"が代表だが、同書p44以降には連合軍の当初の作戦に関する記述がある。
それによると左翼の第1(ドクトゥーロフ)、第2(ランジェロン)、第3(プルジェブイシェフスキー)、第4(コロヴラット)縦隊は、ゴールドバッハ川を渡った後で並んで北へ旋回。第1縦隊の4個大隊でトゥラスの森を、第4縦隊の3個大隊でシュラパニッツを占拠し、他の部隊は揃ってシュラパニッツと森の間を前進してフランス軍の右側面を攻撃する。キーンマイヤーの前衛部隊が彼らの左を守り、リヒテンシュタインの第5縦隊とバグラチオンの前衛部隊はフランス軍の正面を保持。彼らの背後に予備としてコンスタンティンの軍団が展開する。
Mitteilungen"
http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ"に掲載されているAngeliのUlm und Austerlitzでも、ヴァイローターが左翼からの迂回包囲を考えていたことが指摘されている(p358)。Oesterreichische militärische Zeitschrift"
http://books.google.co.jp/books?id=76NgN095PV4C"に載っているSchönhalsのDie Schlacht von Austerlitzにも同じような作戦が紹介されている(p268)。ロシア側公式戦史とも言うべきMichailowski-DanilewskiのRelation de la campagne de 1805"
http://books.google.co.jp/books?id=Q-1OAAAAcAAJ"も同じだ(p232)。
という訳で基本的にシュトゥッテルハイムの説明が正しいと見てよさそう。ただ気になるのは、ヴァイローター自身が書いた命令書のようなものが見当たらない点だ。いや、それらしいのがない訳じゃない。MorigglのDer Feldzug des Jahres 1805"
http://books.google.co.jp/books?id=8HpBAAAAcAAJ"にはヴァイローターの書いた文章なるものの引用があり(p628)、さらにその本より昔に出版されたGeschichte der Kriege in Europa, Sechster Theil."
http://books.google.co.jp/books?id=o09BAAAAcAAJ"にも同じような文章がある(p147)。
だが、正直言ってこれらの本の信頼度は今一つだ。少なくともMitteilungenやOMZといった書物に掲載されている論文に見当たらない文章を、Morigglのように信頼性の微妙な本で紹介されても、そのまま史実と認めることは躊躇われる。残念ながら現時点ではヴァイローターが書いた命令文として信頼に足るものは見つけきれていないと考えるべきだろう。
作戦会議におけるクトゥーゾフの態度やヴァイローターとのやり取りは、ランジェロンの回想録が元ネタだと思われる。回想録そのものはネット上にも見当たらないが、そこから引用した文章はあちこちにある。例えばColinはRevue d'Histoire"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121748h"に掲載したLa Campagne de 1805 en Allemagneの中で、ランジェロンの回想録を引用している。
「午前1時、我々全員が集まった時、ヴァイローター将軍が到着し、大きなテーブルに巨大で極めて正確かつ詳細なブリュン及びアウステルリッツ周辺の地図を広げ、その実績の信念を暗示する傲慢な雰囲気を漂わせながら高い調子で彼の配置を我々に向かって読み上げた。それは中等学校の教師が若い生徒たちに向かって授業をしているかのようだった。我々が到着した時に椅子に腰掛けて半分眠っていたクトゥーゾフは、最後に我々が出発する前には完全に眠りこけていた。ブクスヘヴデンは立ったまま聞いていたが間違いなく何も理解していなかった。ミロラドヴィッチは沈黙し、プルジェブイシェフスキーは後方にとどまり、そしてドクトゥーロフのみが注意深く地図を調べていた」
p322-323
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