命令の変化

 アウステルリッツの戦いについては、こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/austerlitz.html"でChristopher Duffyの本に載っているMichel de Lombarèsの研究内容を少し紹介したことがある。ナポレオンの作戦計画が開戦直前に変化したというもので、1947年出版のRevue historique de l'armée"http://books.google.co.jp/books?id=AXMvAAAAMAAJ"に載っているのだが、残念ながらネット上では内容の確認はできない。
 だが、そうした研究を初めてしたのがLombarèsでないことは確かだ。1907年出版のRevue d'histoire"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121748h"に掲載されているColinのLa campagne de 1805 en Allemagne. 7e partie. Austerlitz"http://www.napoleon-series.org/research/bibliographic/c_frenchstaff1.html"に、会戦前日からナポレオンの作戦がどう変化したかについての分析が掲載されている。
 Lombarèsはナポレオンの作戦が3段階で変化したと見ているようだが、Colinによれば基本的な変化は2段階だ。まず12月1日に「彼[ナポレオン]は敵の諸縦隊がコベルニッツとその下流でゴールドバッハ川に接近するであろうと考え、夕方に命じた配置はこの想定によって決められた」(p303)。だがその夜、オーストリア軍によるテルニッツへの尚早な攻撃によってナポレオンは考えを改め、「12月2日朝4時から7時の間、彼は受け取った最新の警告に刺激され、指示した配置にいくらかの変更を加えた」(同)。連合軍の動きを見ながら柔軟に作戦を変更していったわけだ。
 
 どのように命令が変わったのか。Colinによれば1日の命令による配置は以下のようになる(地図"http://www.maproom.org/00/13/present.php?m=0037"参照)。まずカファレリ師団がランヌ麾下に入り、代わりに擲弾兵師団が予備として皇帝直属になる。ランヌ軍団の2個師団はザントン高地南方に展開。スールト軍団のうちヴァンダンムとサン=ティレールはジルジコヴィッツ[ギルジコヴィッツ]で川を渡り攻撃の準備をする。ルグラン師団は散兵をコベルニッツとゾコルニッツに置くが、主力はプントヴィッツで渡河する。そして第3軍団は2日朝5時にライゲルンを発しトゥラスへ進む。騎兵の大半は第5と第4軍団の中間地点の背後に、第1軍団と親衛隊、擲弾兵師団などはツーラン高地周辺に集結していた(p304)。
 
「もしこれらの配置を分析し、その目的を理解しようとするのなら、プントヴィッツ下流のゴールドバッハ沿いを、コベルニッツの200人、ゾコルニッツの200人、及びいくつかの猟騎兵大隊で守っていたことに注目すべきである。敵の攻撃により多大な抵抗するためこの方面に振り向けることもできたダヴーの兵は、トゥラスへ向かわされた。ナポレオンはコベルニッツとゾコルニッツ村を、ましてやテルニッツを守ることは考えていなかった。小川の右岸、シュラパニッツとラタイン間には1個師団すら残っていなかった。トゥラスにおいて第3軍団は、ゾコルニッツとコベルニッツから北方へ出撃してくる敵の左側面に襲い掛かるつもりであった」
p304-305
 
 だが連合軍の移動はナポレオンの当初想定とは違ったものになった。プラッツェン高地から真っ直ぐ西へ進んでゴールドバッハ川を渡ると思われた連合軍の左翼は、南西のテルニッツへと移動。一方、北方オルミューツ街道に展開している部隊(バグラチオン)はその場にとどまった。結果「ホルビッツとプラッツェン間の全ての地域はほとんど兵がいなくなったと想定されたようだった」(p309)。
 連合軍の前進を待って両翼から挟み撃つつもりだったナポレオンだが、突然目の前に現れた戦線の隙間というこの好機に飛びつく決断をした。1日夜に彼は命令の変更に踏み切ったが、それについて残されている文書はスールトからサン=ティレールに宛てたものだけ。それでもColinは会戦当日朝のフランス軍配置などを参照しながら、ナポレオンがどのような変更を行ったのかを推測している。
 サン=ティレール師団はジルジコヴィッツではなくプントヴィッツで川を渡る。そのプントヴィッツにいるはずだったルグラン師団は、テルニッツに従来より多くの兵を派出したうえでコベルニッツにルヴァスール旅団を配置する。第1軍団はザントンではなくジルジコヴィッツの背後に集まり、そしてフリアン師団はトゥラスではなくゾコルニッツに向かう。
 
「要するに実質的な変更はそれほど大きくなかった。敵の攻撃がゾコルニッツとコベルニッツ間ではなくテルニッツとゾコルニッツに振り向けられたため、軍の移動をもう少し南方へと向ける意図があった。加えてナポレオンはゾコルニッツとテルニッツを第4軍団の兵3000人で防衛し、第3の全戦力を追加できるようにした。つまり彼は連合軍のゴールドバッハへの攻撃を止められずとも鈍化させる必要があると判断したのである」
p310
 
 このColinの説明はどれだけ正しいのか。まずCorrespondance de Napoléon Ier, Tome Onzième"http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ"だが、まず12月1日に兵士向けに出された布告には「彼らは我々の右翼を迂回することにより、その側面を我々に晒している」(p441)とある。この時点では側面攻撃を意図していたのだと解釈できる文章であり、だとすると連合軍中央の隙間を見つける以前、第1段階の作戦をこの時点ではまだ実行するつもりだったのかもしれない。
 一方、同日午後8時に出された命令になると「ダヴー元帥はフリアン師団及びブルシエの竜騎兵師団とともに午前5時にライゲルン修道院を発し、スールト元帥の右翼に達する」(p442-443)と書かれるようになる。スールト師団の右翼となると、これはおそらく2段階目の作戦だろう。つまり、一応ナポレオンの書簡集はColinの説と平仄が合っているのだ。もっとも矛盾はしないというだけで、Colinの説を裏付けるほどの記録が書簡集に収録されているわけではない。
 他にないのか。Colin自身は様々な軍団の報告抜粋を集めたRelation de la bataille d'Austerlitzや、ポワトヴァン大佐の記した日記などを脚注で紹介している(p309)ものの、それに類する書物は残念ながらgoogle bookでもinternet archiveでもgallicaでも見つからなかった。そもそもColinの文章には意外に脚注が少ない。
 結局、頼りになりそうなのはCorrespondence du maréchal Davout, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=KF4IAAAAQAAJ"くらいだ。まず会戦4日後に書かれた報告書によれば「私はウードレ将軍の旅団をトゥラスへ向かわせ、そこから敵を追い払い、そしてゾコルニッツへ向かうよう、フリアン将軍に指示しました」(p199)との文章がある。日付不明だがプレスブルクで書かれた報告にもほぼ同じ文章がある(p221)。
 一方12月27日に皇帝宛に書いた報告には「これらの兵は当初トゥラスへ向かいました。それから私は手に入れた命令に従い、彼らをゾコルニッツに向かわせました」(p203)とある。つまりダヴーは当初、その兵力をトゥラスに向かわせていたが、後から命令を受けて方向をゾコルニッツに変えたことになる。これが事実なら、1日夜にナポレオンが行った命令の変更はダヴーの下には翌日にならないと届かなかったものの、命令変更があったこと自体は否定できなくなる。最初は連合軍左側面を攻撃するべくトゥラスへ向かったダヴー軍団は、結局ルグラン師団を助けスールトの右翼を支えるためゾコルニッツへ進むことになったのだ。
 
 以上、不十分ながら辻褄は合う記述を並べてみた。だがどうにも解釈の難しい一文もある。Colinは会戦当日(2日)の朝について「午前4時か5時頃、皇帝は最後の命令を送り出した。他のものたちの中で1人の幕僚が、プントヴィッツとコベルニッツへ向かい続ける代わりにゾコルニッツへ下がれとの第3軍団へ命令すべく、シュラパニッツとトゥラスを経てライゲルンへ送られた」(p497)と書いているのだ。
 第1段階ではトゥラスへ、第2段階ではゾコルニッツへ向かうよう命じた、とColinはそれまで書いている。なのになぜかここではいきなりプントヴィッツとコベルニッツという目的地が登場している。ダヴーの報告にも出てこないこの目的地がどのような論拠に基づいて出てきたのか、Colinの文章を読んでもよく分からないのだ。もしかしたら、そうした疑問からLombarèsは「命令の3段階変更説」にたどりついたのかもしれない。
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