軍事革命

 以前、火薬の歴史"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53906343.html"を紹介した時にも触れた疑問だが、「中国で生まれた火器が、最終的にはなぜ欧州で大発展を遂げたのか」という疑問を抱いた人は多い。一例がKenneth Chaseの書いたFirearms"http://books.google.co.jp/books?id=esnWJkYRCJ4C"だ。序文の冒頭には「火器を発明したのは中国人なのになぜそれを完成させたのは欧州人だったのか?」(p1)という一文がある。
 この問いに対する答えとしてChaseが持ち出したのは騎馬民族の存在及び兵站だ。内容についてはこちらの書評"http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138119/1/JOR_63_1_126.pdf"を読んでもらうのがベストだろうが、要するに多くの兵力を支える兵站能力のない中央アジアでは騎馬民族が戦闘の中心となり、彼らと戦う必要があった勢力にとっては初期の火器はあまり役に立たなかった。一方、人口密度が高く兵站能力に優れたユーラシアの辺境部分(西欧や日本)では騎兵より歩兵が戦いの中心となり、そのため火器の使用が増え発達を遂げたという理屈である。
 一方Chaseはこの本の中で「常時戦争説」(ジョーンズ)や「国家規制説」(マクニール)というものを否定しているという。まあ自説を手っ取り早くアピールするには先行する他の説を否定するところから入るのが通例なんだろう。実際「国家はなぜ衰退するのか」なども「銃・病原菌・鉄」が環境決定論すぎるという批判をしているようだし。
 
 Chaseはジョーンズ風に言う「ヨーロッパの奇跡」をもたらした理由について独自の考えを示しているが、欧州が火器開発ですぐにアジアを追い抜いたことは否定していない。マイケル・ロバーツが1950年代に唱え、後にジェフリー・パーカーが完成させた「軍事革命」"http://en.wikipedia.org/wiki/Military_Revolution"(軍事における革命 Revolution in Military Affairs ではない)の枠組みから離れた議論をしている訳ではない。しかし世の中には軍事革命という枠組みに対する修正主義的な主張もあるそうだ。
 一例がこちら"https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/25835/1/34_pa001.pdf"に紹介されているLaichen Sunの見解。彼の指摘の中で重要なのは、火器の発達における主役が欧州だけだという認識への疑問だろう。火器を中心とした軍事革命は「欧州の」ではなく「ユーラシア全体の」革命であり、特に1500年以前の初期の頃はむしろ「中国の」革命だったという見方は、なかなか刺激的だ。
 Sunによれば「アジアにおける中国による最初の火器技術の波は、改良されたヨーロッパの火器技術がアジアに広がり、ヨーロッパによる第二の技術波及が始まった、16世紀初頭まで続いた」という。最初は「中国の、ないしは中国由来の火器がアジア史において重要な役割をはたした」。火器を通じて軍事革命へ貢献したのは、欧州の特権的役割ではなかったというわけだ。実際に火薬も火器も最初に発明されたのは中国なのだから、特に初期の頃に中国が果たした役割が大きかったのは十分にありうるだろう。
 軍事革命が欧州独自のものではないとの指摘をしている点ではロージの書いたこの本"http://www.showado-kyoto.jp/book/b99889.html"も同じ。特にロージは、銃砲という道具が影響を及ぼしたのはあくまで軍事の分野であり、それよりも大きな影響を及ぼしたのは政治や社会制度の方だったとの主張を繰り返し述べている。1500年以降の欧州の「武器の」優越性は認めても、それは「社会や文化の」優越性を証明するものではないとの見方だろう。ちなみにこの本、翻訳者のあとがきと文献案内が非常によくできている。この部分だけでも目を通す価値はありそうだ。
 
 Sunなどの唱える「アジアの軍事革命」論は、従前からある「軍事革命」に対する修正主義的な見方と言えるだろう。そのあたりの学説動向をまとめ、なおかつ自身の考えを述べているのがTonio Andradeのこちらの論文"http://ejournals.library.ualberta.ca/index.php/CJS/article/view/8873/8111"だ。自身、修正主義側であったと述べているAndradeは、17世紀に台湾を巡って行われたSino-Dutch Warの事例分析を行っている(詳細は本"http://press.princeton.edu/titles/9525.html"にもまとめている)。
 日本では近松の「国性爺合戦」"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%80%A7%E7%88%BA%E5%90%88%E6%88%A6"で知られる鄭成功による台湾占拠は、オランダ人(つまり欧州人)が築き上げた植民地を17世紀の時点で中国人(つまりアジア人)が奪い取った点で、産業革命前の欧州とアジアの差はそれほど大きくなかったという修正主義者の主張を裏付けるかのように思われる史実だ。実際、Andradeも詳しく調べるまで、そういう考えを裏付ける史料が見つかると思っていたらしい。
 だが実際に調べると半分は間違いだったという。確かに銃や大砲、そして銃の一斉射撃を行うための歩兵訓練といった分野では西と東の差は大きくなかった。鄭成功が使った火器の中には欧州産ではなく中国で作られたものもあったが、それを含めても彼はオランダ軍に負けないだけの効果的な戦闘を行ったそうだ。一方、2つの分野においては欧州の技術が中国を圧倒的に上回り、鄭成功を大きく追い詰める要因となった。即ち艦船と要塞だ。
 艦船の分野では、外洋(deep water)での戦闘能力と、風上への航行能力において、オランダの帆船は中国のジャンク船を圧倒していた。巨大で安定度の高いオランダ帆船は多数搭載した大砲を使って小さなジャンク船を一方的に攻撃できた。もちろん水深の浅い海域では喫水の深いオランダ帆船の機能は大きく損なわれることになったのだが、その大きさは中国側から見るとほとんど無敵に思われたようだ。
 風上への航行能力は鄭成功の戦略を破綻寸前に追いやった。彼は南風の季節に台湾攻撃を行ったのだが、そうすることでオランダ軍が南方バタヴィアへ救援要請の船を送れないようにしたつもりだった。だが風上へ航行できるオランダ船は容易にバタヴィアに到着し、増援をつれて戻ってきた。彼らを見た鄭成功の陣営はほとんどパニックに陥ったという。もしオランダ軍がその艦船の外洋戦闘能力を生かし、中国本土から台湾への補給を遮断するように行動していれば、鄭成功は負けていたかもしれない。
 要塞も中国側を圧倒していた。ルネサンス式(イタリア式)要塞も中国の城壁も、砲弾で容易に崩されない分厚い城壁を構えていたのは同じ。だがルネサンス式要塞は接近してきた敵に十字砲火を浴びせられるよう巧妙に設計されていた。その事実に気づかなかった鄭成功は強襲の際に多大な損害を出し、結局攻撃ではなく封鎖によって要塞を枯渇させる作戦に出る。最終的に鄭成功が要塞を落とすには、内部からの裏切り者による情報提供が必要になった。
 どうやら俗説で語られるほど欧州とアジアの軍事力の差は(産業革命以前は)大きくなかったが、差があったこと自体は事実のようだ。その差はおそらく最初は気づかない程度のものだったが、時とともに巨大化し明確になっていった、とAndradeはまとめている。軍事技術の優位性を過大評価するのは拙いかもしれないが、それでも優位性が欧州側にあった点までは否定できないようだ。
 
 あとメモ代わりに、中国で発見された古い時期の火器についてはこちら"http://shahr.exblog.jp/15950877/"。
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