タボール橋奪取についてはColinもLa surprise des ponts de Vienneという文章を1905年のRevue d'histoire"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121743m"に掲載している。その中にはドードは登場しないのだが、ミュラが取り上げていない別の人物の名前が出てくる。ミュラの参謀長を務めていたベリアールだ。陸軍公文書館にある「予備騎兵の行軍及び作戦日誌」(p245-247)からの引用とあるので、かなりリアルタイム性の高い文章だと思われる。ちなみに日誌の内容についてはLes états-majors de Napoléon"
https://archive.org/details/lestatsmajorsde00derrgoog"でも確認できる。この本に掲載されている日誌は11月7日から13日の分までだ(p324-330)。
Colinによればベルトランが先に橋を渡って2リュー離れたオーストリア軍司令部に向かった後で、ミュラとランヌは橋の入り口で下馬した。ベリアールは「2人の幕僚士官とともに歩いて進み、ランヌ元帥が2人の士官とともに続いた」(Revue d'histoire, p246)。そうやって敵陣までたどり着いたフランス軍士官たちはオーストリア軍指揮官の説得に当たり、実際に一度は武器を収めさせた。その間にフランス軍部隊が少しずつ前進し、その背後に隠れた工兵と砲兵が爆薬の取り外しを進めた。
その動きに疑惑を感じたオーストリア軍士官が何をしているかと問いただしたのに対し、ベリアールらは「寒くて震えているだけであり、温まるために足踏みをしているのだ」と説明したんだそうだ。事実だとしたら喜劇役者が真面目な顔でドタバタを演じているのと同じくらい笑えるシチュエーションである。でもそんな言い訳で橋の4分の3まで進むことができたのは、おそらくオーストリア軍士官がフランス語をほとんど話せなかったおかげであろう。
フランス軍がそこまで進んだとき、流石に拙いと思ったのか、オーストリア軍の砲兵士官が砲撃を命じた、とベリアールは記してる。オーストリア側でこの話を紹介したAngeliによれば、実際に砲撃を命じたのはゼクラー歩兵連隊のヨハン・ブルガリッヒ大尉(Mitteilungen"
http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ" p329)となっており、兵科に違いはあるものの両者の言い分がかなり一致している場面である。おそらく史実なんだろう。
ランヌとベリアールはこの士官の襟首を捕まえ、大声を上げて彼の命令が部下に届かないようにしながら、流血の責任をとるつもりかと問いただして命令の実行を遅らせた。そこに「ベルトラン将軍と一緒に」(p247)オーストリア側の司令官であるアウエルスペルクが到着。ミュラに会いたいと言ったため1人の幕僚士官が「状況を公子ミュラに知らせるため」送り出された。さらにアウエルスペルクとの会話が長引いている間に、とうとうフランス軍は橋を渡りきってしまったのである。
以上から分かること。以前"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53862573.html"にも述べた通り、この「はったり」を使った場面にミュラはいなかった。後でミュラに状況を知らせるべく士官を送り出したとベリアールが述べているのを見ても、その場にミュラが不在であったことは間違いない。だがThiersは、この場面で砲撃しようとしたオーストリア士官に対し「ランヌとミュラが他の同行していた他の士官たちとともに砲兵に駆け寄」(Histoire du consulat et de l'Empire, Tome Sixième, p262)ったと書いている。彼の本については、やはりきちんと裏を取らないと安易に信用できない面がある。
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