タボール橋・追記

 タボール橋関連で新たな話をいくつか。タボール橋での計略にかかわったとされる人物の中に、ギヨーム・ドード=ド=ラ=ブリュネリーという人物がいる。後にフランスの元帥まで昇進した彼は、英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Guillaume_Dode_de_la_Brunerie"によれば「はったりでオーストリアの指揮官アウエルスペルクに休戦が署名されたと信じさせた有名なドナウにかかる橋の奪取の際に、ドードはランヌ及びジョアシャン・ミュラとともにいた」と書かれている。
 こちらの文章"http://www.napoleon-series.org/research/biographies/c_dode.html"によればドードはドイツ語が話せるという理由で、オーストリア軍の見張りに対して講話が結ばれたと話すよう命じられたのだそうだ。だが引用されているマルボの回想録には「ドイツ語を話す数人の士官」としか書かれておらず、ドードがその場にいた証拠にはならない。ちなみにwikipediaにもソースは記されていないし、そもそもフランス語やドイツ語wikipediaにはこの逸話自体が紹介されていない。
 実のところ、以前紹介したタボール橋奪取に関する各種ソース"http://www.histoire-empire.org/austerlitz/une%20_ruse_audacieuse.htm"の中にドードの名は全く出てこない。当然ながらフランス側史料で最も信頼できるであろうミュラの報告書(Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat"https://archive.org/details/lettresetdocumen04mura" p146-148)にも登場していない。ミュラが言及しているのはベルトラン、モワセル、ラニュス、そしてランヌだけだ。
 ドードがその場にいたというソースはないのだろうか。ドードの伝記Notice sur le vicomte Dode de la Brunerie"http://books.google.co.jp/books?id=RYhJAAAAMAAJ"には彼がベルトランとともに行動したこと、そしてベルトランがセント=ヘレナから帰ってきた後にナポレオンの墓石のかけらに「ウィーンの橋の思い出に」(p34)と記してドードに渡したと書かれている。ではベルトラン自身はどう話しているのか。探して見つかったのはNapoleon-Seriesの掲示板に載っていた英訳されたベルトランの報告"http://www.napoleon-series.org/cgi-bin/forum/archive2010_config.pl?md=read;id=121221"。それによればベルトランは「ドード及びガルベ少佐(chefs de bataillon)を伴って」橋を渡ったとある。
 この英訳報告書が正しければドードが橋の奪取に関与したのは間違いないだろう。ちなみにNotice biographique sur le lieutenant-général comte Bertrand"http://books.google.co.jp/books?id=FxNBAAAAYAAJ"でも同じ話をベルトランの副官が紹介している(p10)。だが一方で、このベルトランの報告には彼及び彼の部下たちは登場してくるが、ミュラが言及している「モワセル、ラニュス」らの名前はない。ベルトランは「私と、私に同行した2人の士官」がオーストリア軍の司令部に連れて行かれたとしており、他の士官が関与していたと認めてはいないのだ。モワセルとラニュスがどこへ行ったのか、彼らがそもそもどのように橋奪取に関与したのかは不明。
 ドードの話はThiersが19世紀中ごろに著作の中で言及し、より知られるようになった。1845年出版の英訳本(History of the consulate and the empire of France under Napoleon, Vol. V."http://books.google.co.jp/books?id=ZdFVw7mnOx4C" p138)や1847年出版のフランス語の本(Histoire du consulat et de l'Empire, Tome Sixième"http://books.google.co.jp/books?id=KvJJAAAAcAAJ" p261)が私の見つけた最も古い例。その後、1853年と1861年に出版されたドイツ語の本には、いずれもドードの名が出てくるようになっている(Der Krieg von 1805 in Deutschland und Italien"http://books.google.co.jp/books?id=mwUxAQAAIAAJ"のp285とDer Feldzug des Jahres 1805"http://books.google.co.jp/books?id=mz5BAAAAYAAJ"のp593)。
 
 タボール橋奪取についてはColinもLa surprise des ponts de Vienneという文章を1905年のRevue d'histoire"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121743m"に掲載している。その中にはドードは登場しないのだが、ミュラが取り上げていない別の人物の名前が出てくる。ミュラの参謀長を務めていたベリアールだ。陸軍公文書館にある「予備騎兵の行軍及び作戦日誌」(p245-247)からの引用とあるので、かなりリアルタイム性の高い文章だと思われる。ちなみに日誌の内容についてはLes états-majors de Napoléon"https://archive.org/details/lestatsmajorsde00derrgoog"でも確認できる。この本に掲載されている日誌は11月7日から13日の分までだ(p324-330)。
 Colinによればベルトランが先に橋を渡って2リュー離れたオーストリア軍司令部に向かった後で、ミュラとランヌは橋の入り口で下馬した。ベリアールは「2人の幕僚士官とともに歩いて進み、ランヌ元帥が2人の士官とともに続いた」(Revue d'histoire, p246)。そうやって敵陣までたどり着いたフランス軍士官たちはオーストリア軍指揮官の説得に当たり、実際に一度は武器を収めさせた。その間にフランス軍部隊が少しずつ前進し、その背後に隠れた工兵と砲兵が爆薬の取り外しを進めた。
 その動きに疑惑を感じたオーストリア軍士官が何をしているかと問いただしたのに対し、ベリアールらは「寒くて震えているだけであり、温まるために足踏みをしているのだ」と説明したんだそうだ。事実だとしたら喜劇役者が真面目な顔でドタバタを演じているのと同じくらい笑えるシチュエーションである。でもそんな言い訳で橋の4分の3まで進むことができたのは、おそらくオーストリア軍士官がフランス語をほとんど話せなかったおかげであろう。
 フランス軍がそこまで進んだとき、流石に拙いと思ったのか、オーストリア軍の砲兵士官が砲撃を命じた、とベリアールは記してる。オーストリア側でこの話を紹介したAngeliによれば、実際に砲撃を命じたのはゼクラー歩兵連隊のヨハン・ブルガリッヒ大尉(Mitteilungen"http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ" p329)となっており、兵科に違いはあるものの両者の言い分がかなり一致している場面である。おそらく史実なんだろう。
 ランヌとベリアールはこの士官の襟首を捕まえ、大声を上げて彼の命令が部下に届かないようにしながら、流血の責任をとるつもりかと問いただして命令の実行を遅らせた。そこに「ベルトラン将軍と一緒に」(p247)オーストリア側の司令官であるアウエルスペルクが到着。ミュラに会いたいと言ったため1人の幕僚士官が「状況を公子ミュラに知らせるため」送り出された。さらにアウエルスペルクとの会話が長引いている間に、とうとうフランス軍は橋を渡りきってしまったのである。
 以上から分かること。以前"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53862573.html"にも述べた通り、この「はったり」を使った場面にミュラはいなかった。後でミュラに状況を知らせるべく士官を送り出したとベリアールが述べているのを見ても、その場にミュラが不在であったことは間違いない。だがThiersは、この場面で砲撃しようとしたオーストリア士官に対し「ランヌとミュラが他の同行していた他の士官たちとともに砲兵に駆け寄」(Histoire du consulat et de l'Empire, Tome Sixième, p262)ったと書いている。彼の本については、やはりきちんと裏を取らないと安易に信用できない面がある。
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