デゴ ―漫画と史実―

 ナポレオン漫画の最新号。まさかまだデゴが終わらないとは予想だにしなかった。いったいどこまでこのペースで行くつもりなんだ? これじゃワーテルローにたどり着くなんて絶対不可能だ。ギャランティー宣言をしてもいいくらいである(NFLファンなら分かる)。詳しく描いてくれるのは、マニアにとってはありがたいのだが。
 前回かなり飛ばしていたので今回は比較的控え目(特にマセナが)。代わりにランヌの目つきがどんどん危なくなる。それを除けば話は大方史実通り。デゴ奪回のため西方に向かっていたラアルプ師団が呼び戻されたのは史実だし、デゴを奪回したオーストリア軍の指揮官の名前も、まあ間違いとはいえない。
 この指揮官は英語圏ではVukassovichとかWukassowichとかWukassovitchなどと表記されることが多い。私はヴュカソヴィッチと書くことが多いが、ヴカソヴィッチとかブカソビッチでも良さそう。さすがにブ“ガ”ソビッチは少し違うような気もするが、そもそも外国人の名前を日本語で書くこと自体に無理があるのだからあまりこだわらなくてもいいだろう。

 で、ここから細かい史実との比較になる。漫画の中ではヴュカソヴィッチについて「急襲したタイミングといい、馬鹿ではないらしい」と述べており、戦報によれば「『大砲の轟く方角に進め』という戦場での原則に従ったオーストリアのブカソビッチ少将の独断は、フランス軍を驚愕させた」ということになる。さて、これは史実と比べてどうなのだろうか。
 ヴュカソヴィッチが砲声に向けて進軍したと書いている研究者としては、私の知る限りEsposito & Eltingがいる。"A Military History and Atlas of the Napoleonic War"のmap5には「デゴの方向から激しい砲声を聞いたヴュカソヴィッチは、彼自身の判断で[4月14日]午後の間に行軍を行ったが、道に迷った」とある。ただ、調べた限りでヴュカソヴィッチが砲声へ向けて進んだと記しているのは彼らのみ。何を根拠にそう記しているのかも不明だ。
 他の研究者の大半は異なる理由を示している。ヴュカソヴィッチは独断で行動したのではなく、上官であるアルジェントーが14日に出した命令に従った、という説だ。命令の内容は以下の通り。「もしデゴが敵に脅かされたのならば、[ヴュカソヴィッチ]大佐は翌朝、デゴへ向けて陽動を行え」(Martin Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p242)。そしてこの命令文が、思わぬ結果を引き起こしたのである。

「そしてその夜[4月13-14日]、日中にマセナが行った偵察で危険を察したアルジェントーは、ヴュカソヴィッチにデゴへ来るよう伝えた。14日にジュスヴァラへ到着したヴュカソヴィッチは、午前6時にアルジェントーの命令を受け取った。彼はマセナがデゴを攻撃する砲声を聞くことができた。しかし、翌朝に行軍するよう命じている命令文の日付は、14日の午前1時となっている。そこでヴュカソヴィッチはこの命令に固執するなら彼はデゴに15日に到着するべきだと考え、実際にその通りにした」
Ramsay Weston Phipps "The Armies of the First French Republic" p21

 だが、命令文が出されたのが13-14日にかけての夜であることを考えるなら「アルジェントーが[“翌朝”の意味を]14日朝と考えていたことはほとんど疑いない」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p242)。つまりヴュカソヴィッチは上官の命令を誤解していたのである。David G. Chandlerなどは「手紙が実際に口述されたのは13日の夜遅くであり、指揮官の意図はヴュカソヴィッチを翌日の戦闘に関与させるところにあったが、日付の間違いのため部下にとっては15日にデゴに来るように思われてしまった」(Chandler "The Campaign of Napoleon" p73)と推測している。
 もしアルジェントーの意図がきちんとヴュカソヴィッチに伝わっていたとしたら、どうなっただろうか。アルジェントーの命令では、まずヴュカソヴィッチにポンティンヴレアへ前進するよう命じたうえで、デゴが脅かされたならデゴへ向かえと書いている。彼はこの命令を14日午前6時に受け取っているが、受け取った場所についてはサッセロ(Boycott-Brown)やジュスヴァラ(Phipps)など色々な意見がある。
 一方、マセナが最初にデゴへ攻撃を仕掛けたのは14日の午前9時か10時頃。本格的な攻撃は11時から行われた。もしヴュカソヴィッチが朝の命令を受け取った後もサッセロにとどまっていたとしたら、「数日前、ルカヴィナがサッセロからデゴまでの距離を移動するのに8時間を要した」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p242)ことも踏まえると、ヴュカソヴィッチのデゴへの到着時刻は同日午後5時以降になる。逆に彼が朝の時点でよりデゴに近いジュスヴァラにいたり、あるいは午前6時に命令を受けてすぐポンティンヴレアへ向けて移動を始めていたとしたら、到着時刻はもっと早く、最短で午後1時頃になっていた可能性もある。要するにヴュカソヴィッチが本当に「大砲の轟く方角に」進んでいたのであれば、彼は史実の15日早朝ではなく、その前日午後にデゴへ到着していた筈なのだ。
 14日の戦闘にはフランス軍1万2000人に対し、オーストリア軍は5700人が参加したという(Digby Smith)。もし14日の午後にヴュカソヴィッチの部隊(3500人)がデゴに到着していたとしても、オーストリア軍にとっての数的不利は変わらない。おまけにこの日の戦闘では日没1時間前にデゴの城がフランス軍の手に落ちており、その後に到着した場合には有利な地形すら確保していない状況で戦闘に巻き込まれることになる。アルジェントーの意図した通りにヴュカソヴィッチが動き、「大砲の轟く」デゴへ前進していたとしたら、14日のうちに敗退もしくは後退を強いられていた可能性が高そうだ。
 史実は異なる。「彼[ヴュカソヴィッチ]は14日、アルジェントーからの次の命令が到着する正午頃までサッセロで待機し、それから5個大隊を率いてデゴへ出立した」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p250)。そして15日朝、夜明けの霧と、フランス軍の油断(14日のうちに戦場に到達していれば、フランス軍が油断することは有り得なかっただろう)に乗じ、たった3500人の戦力でデゴの奪回に成功したのである。彼らは「青天の霹靂のように」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p250)デゴを襲い、「歴史に自らの名を記した」(Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p250)。さらには西へ向かっていたラアルプ師団を引き返させ、フランス軍のスケジュールを丸一日遅らせることにも成功したのである。最終的にはフランス軍に再びデゴを奪い返されたとはいえ、命令文の誤解がかなりの成果につながったのは確かだ。
 クラウゼヴィッツは戦争について論じる際に「摩擦」という概念を提唱している。机上の論では想定しないような混乱が、実際の戦場ではいくらでも生じる。将軍には、そうした「摩擦」を乗り越えて勝利を掴む能力が必要になるのだ。命令文の誤解が思わぬ結果をもたらしたヴュカソヴィッチの事例も、こうした「摩擦」の一種だろう。ボナパルトはそうした摩擦を乗り越えるべくラアルプ師団を呼び戻した。一方、オーストリア側のボーリューやアルジェントー、コッリといった連中は、せっかく幸運に恵まれたのにそれを活かすことができなかった。彼らの“将軍としての資質”の差はそこにある。

 なお、ヴュカソヴィッチの階級について戦報は「少将」、ChandlerはGeneralと記しているが、これはおそらく間違い。こちら"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/vukassovich.html"にある彼の経歴によれば、ヴュカソヴィッチは1790年にOberst(大佐)となり、1796年9月にGeneralmajor(少将)へと昇進している。デゴの戦いがあった1796年4月時点では、彼はまだ大佐である。

スポンサーサイト



コメント

No title

desaixjp
general augereauさん。「命令は受けていない」とのことですが、Boycott-Brownによれば"if Dego is threatened by the enemy, the colonel will create a diversion towards Dego tomorrow morning"という命令を受けています。砲声を聞いてDegoに前進したとしても、それは「独断」ではなく、この命令に従ったことになるのではないでしょうか。

No title

desaixjp
Vukassovichが道に迷ったのが事実かどうかは私にも分かりません。むしろ具体的に彼が迷ったことを示す一次史料があるのなら教えて欲しいくらいです。いずれにせよ、いろいろコメントをありがとうございました。

No title

desaixjp
Dego奪回が独断かどうかについては手元にある一次史料では判断できません。15日朝にDegoへ到着した件については、一時史料を見る限り「独断」ではなかった、というのが私の見方です。14日にDegoを目指して独断で前進したが道に迷った、という説を採用するには、それを裏付ける一次史料が必要だろうと私は考えています。

No title

desaixjp
Vukassovichの読み方については特に異論はありません。ドイツ語でVuはヴではなくフ(fu)になると思いますが、Wuは間違いなくヴです。Phippsがドイツ語風に読ませようとしたのなら、日本語表記としてはおそらくヴカソヴィッチが一番妥当なのでしょう。上のエントリーでも書いたように、別にどんな日本語表記であっても大間違いでなければ構わないと思います。

No title

desaixjp
別にBoycott-BrownもChandlerもPhippsも、ひいてはEsposito & Eltingも曖昧な記述をしているとは思いません。前三者は「Vukassovichは命令に厳密に従った」、Esposito & Eltingは「道に迷った」とそう主張しています。それをなぜそんなに複雑に考えなければならないのか、私には正直理解できません。

No title

desaixjp
あと、一次史料と書いているのはBoycott-Brownが紹介している命令文のことです。14日午前1時付の命令文に「翌朝」とあるのであれば、それを15日朝と考えても辻褄は合います。そして、Vukassovichが15日朝にDegoに到着したことは誰も否定していません。この二つの条件から考えると、最も素直は解釈は「命令に従い15日朝に到着した」です。この解釈を引っくり返すには、他の一次史料が必要だと私は考えます。

No title

desaixjp
という訳で、これ以上二次史料(Boycott-Brown以下の著作)の解釈論を続けても水掛け論にしかならないと思います。前向きな議論をするためにも、是非とも新しい一次史料についてのご教示をいただけないでしょうか。私自身、Boycott-Brownが紹介している命令以外の一次史料を手元に持っていない状態です。他の一次史料があるならその内容には非常に興味があります。

No title

desaixjp
そうした疑問に対する回答も、基本的には一次史料に当たるしかないでしょう。もちろんご指摘の通り、信頼できる史料とできない史料があるのは確かですが、一次史料なしで論じるよりは遙かにマシ、というのが私の見解です。謎は気になりますが、どうしても知りたい場合は頭を捻るより一次史料を探す方が答えに至る近道だと思います。
非公開コメント

トラックバック