スールト軍団とプラッツェン高地

 承前。
 アウステルリッツの戦い前におけるフランス軍内のある逸話をティエボーが伝えている。11月28日にヴェルシュピッツ村の背後にある郵便駅舎での出来事だ。ミュラが司令部を置いていたその駅舎で、スールトとミュラがロシア軍の攻撃を受けた後の方策を論じていた。
 
「ランヌがちょうど入ってきたところ、彼ら[スールトとミュラ]は勢いよく自分たちの立場を説明し、急いで退却する必要があるのみならず、ナポレオンに対して自由にものを言える彼の立場を生かして3人の意見を彼に書き知らせるべきであると説得した。ランヌは自らの信念を述べる勇気に決して欠けることはなかった。彼ほど勇敢なものは世界にいなかったし、同様に彼ほど率直で単刀直入なものもいなかった。彼は即座にペンを取り手紙を書き終えたとき、皇帝が入ってきた。『さて諸君、ここは随分と気持ちのいい場所だな』というのが彼の最初の言葉だった。『我々はそう考えていません』とランヌは答え『その件について陛下に手紙を書いたところです』と述べた。皇帝は返事をせずに手紙を取り上げ読んだ。読み終えた彼は『何と! ランヌが退却を助言するのか? こんなことが起きたのは初めてだ。君もか、スールト?』と続けた。スールトは『陛下がどのような形で第4軍団を使うにせよ、その兵力は倍と見なせるでしょう』と言い逃れた。このせこいいんちきに激怒したランヌは怒って『私はここでまだ15分と過ごしていないし、我々の立場についてこれらの紳士たちが私に話した以上のことは何も知りません。私の意見は彼らの発言に基づき形成されたもので、彼らの頼みであなたに手紙を書いたのです。だからスールト元帥の返答は汚い誤魔化しであり、私がおよそ予想していないものでした。私はこれを侮辱とみなし、その補償を求めます』と返答した」
Mémoires du général Bon Thiébault, III"http://archive.org/details/mmoiresdugnralb01calmgoog" p446-447
 
 岸田恋の「戦争と平和」"http://www.fukkan.com/fk/VoteComment?no=13106"の中でも紹介されていたエピソードだが、google bookで調べてみてもティエボー以前にこの逸話を紹介している文献は存在しない。ティエボー自身はこの話をランヌの副官であったシュベルヴィー少佐"http://fr.wikipedia.org/wiki/Jacques-Gervais_Subervie"から聞いたとしているが、他の当事者による裏づけ的な発言は見当たらないようだ。
 だがこれが史実でないと決めつけるのは難しい。まずRelation de la bataille d'Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=Q9xDAAAAYAAJ"によれば、ナポレオンは28日、ベルナドットやダヴーに命令を出した後でブリュンを出発し、午後9時に「ポゾルジッツァー・ポスト」へ到着したとある(p37)。このポスト(郵便駅舎)はヴェルシュピッツ村の近くにあり、ティエボーの書いているものと同じ場所だと考えていいだろう。つまりこの日にナポレオンがこの駅舎に来たことはおそらく間違いないのだ。
 おまけに同書には「アウステルリッツの高地から到着したダルマティア公[スールト]のあらゆる報告によれば」(p39)という一文もあり、スールトもこの場に居合わせたことはおそらく間違いない。ミュラとランヌについては言及がないが、前衛部隊であった彼らがその場にいたとしても全く不思議はないだろう。こちらの例"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/nice.html"のように、明らかにその場にいない人物が出てくる逸話なら史実でないと判断できるが、このケースはそれに当たらない。面白すぎるため胡散臭い逸話であるが、現時点では明らかに嘘だとは言えない。
 
 問題はこの時スールトがいた「アウステルリッツの高地」だ。一見プラッツェン高地のことかと思われるが実は違う。11月20日付でナポレオンが出した命令(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième."http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ" p428)にはスールトに対して「アウステルリッツへ向かえ」と指示しているのだが、このアウステルリッツ、現スラフコフ=ウ=ブルナとプラッツェン高地の間にはラウスニッツ川が流れているのだ。
 スールトがこの命令に従って21日にはアウステルリッツに来ていたことはピオン=デ=ロッシュのMes campagnes"http://books.google.co.jp/books?id=LAAxAQAAIAAJ"でも確認できる(p156)。ロッシュはそこで「霜月7日(11月28日)まで何事もなく過ごした」としており、連合軍の攻撃があるまでそこに留まっていたことが分かる。またティエボーも28日夜にラウスニッツから退却した後で「第4軍団が宿営していたアウステルリッツの高地から敵の宿営地に7つの戦列を数えることができた」(Mémoires du général Bon Thiébault, III, p445)と記している。アウステルリッツの地図"http://www.maproom.org/00/13/present.php?m=0037"を見ても、アウステルリッツ村北方の高地からならラウスニッツは簡単に見えるが、プラッツェンからはかなり遠い。
 La campagne de 1805 en Allemagne"http://www.decitre.fr/livres/la-campagne-de-1805-en-allemagne-9782912259691.html"の著者の1人であるColinが雑誌に掲載した地図(Revue d'histoire"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121748h" 巻末)Opération en Moravie, 27 Novembreを見ると、実際にはアウステルリッツ周辺にいたのはルグラン師団で、ヴァンダンム師団はもっと東方に、サン=ティレール師団は西方のテルニッツ周辺に展開していたことが分かる。だが、いずれの部隊もプラッツェン高地に布陣していないことは確かだ。
 実際に連合軍の攻撃を受けた時、スールト軍団のうち「ルグラン師団はアウステルリッツ北方のザンクト=ウルバン[教会の]高地に集まり、ラウスニッツを視界に入れた。ヴァンダンム師団はミュラが使うために1個旅団をポゾルジッツの駅舎に派出し、アウステルリッツとブリュンの街道沿いの第2線に宿営した。最後にサン=ティレールはクレノヴィッツの位置に第3線を形成した」(p280)。この場面では3個師団ともプラッツェン高地より東に展開していたと見ていい。
 そしてスールトがこの「アウステルリッツの高地」から後退する際には、ティエボーによれば「サン=ティレール師団はコベルニッツの背後に、ヴァンダンムはプントヴィッツの背後に、ルグランはゾコルニッツの背後に」(Mémoires du général Bon Thiébault, III, p448)配置されることになった。つまりプラッツェン高地を通り過ぎていきなりゴールドバッハまで後退したことになる。
 Colinの文章でも「第4軍団の3個師団は早朝からアウステルリッツを出発し、ザウスバッハ[リッタヴァ]の谷をメーニッツまで下り、そこからトゥラスまで再び上った。サン=ティレールはトゥラスの森の北東、ラタイン近くに、ヴァンダンムはシュラパニッツの南西に、そしてルグランはトゥラスの森の縁に宿営した」(p286)と書いており、スールト軍団がプラッツェンを横目に見ながらゴールドバッハの背後まで後退した様子が窺える。
 要するにナポレオン漫画今月号に描かれている「このプラッツェン高地から退却するだと?」という台詞をスールトが吐くことはできないのだ。何しろ史実では彼はプラッツェンに布陣したことがなかったのだから。もちろん漫画なんだから分かりやすさや面白さを史実より優先することには何の問題もないんだけど。
 
 あと漫画ではナポレオンがこの時点で連合軍を罠に嵌める考えだったようにも読めるが、史実の彼はどうもそう思っていなかったように見える。というのも公式戦史であるRelation de la bataille d'Austerlitzの中に、連合軍と接触した28日の時点で「ツヴィッタヴァの背後、ブリュンの高地に布陣するのがこの場合の彼[ナポレオン]の意図であった」(p43)と書いているからだ。ツヴィッタヴァ川はブリュンの北東から流れてくる川のことであり、つまりこの時点での彼はプラッツェンの背後ではなくもっと後ろまで下がることも視野に入れていたのだ。その場合、起きたであろう戦いは流石に「アウステルリッツ」と呼ばれることはなかったと思われる。おそらくブリュンの戦いになったのではなかろうか。
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