ダヴー第3軍団の強行軍

 承前、ナポレオン漫画最新号。ヴィシャウで大陸軍前衛が連合軍と戦闘を交えた11月28日、ナポレオンはある命令を出した。Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième."http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ"に収録されているものがそれで、午後8時という時間が記されているその文章でナポレオンの命を受けたベルティエはベルナドットに対し「可能な限り早くブリュンに到着するため、一時も失うことなく兵とともに行軍せよ」(p439)と記している。連合軍が動き出したことに気づいたナポレオンが、いよいよ兵を集め始めた。
 この書簡集には収録されていないが、同じ命令はダヴーに対しても出された。この戦役の公式記録であるRelation de la bataille d'Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=Q9xDAAAAYAAJ"には「11月28日、ポンテ=コルヴォ公とエックミュール公に命令を発した後で、騎兵とともにブリュンを出発し」(p37)たとある。漫画では連合軍が動き出した直後にナポレオンが命令を出したように描かれているが、実際はもう少し後、バグラチオンがパイプを銃弾で吹き飛ばされたシーンの後くらいに出たと思われる。
 そしてこの命令が、ナポレオニック戦争史上、最もハードだったと思われる強行軍を引き起こす要因となった。
 
 この強行軍についてダヴーは1805年12月(日付不明)にプレスブルクで記した参謀長への報告で、以下のように述べている。
 
「フリアン師団は[霜月]8日から9日[11月29日から30日]にかけての夜間に出発し、10日午後7時にはライゲルン[ライフラッド]修道院、即ち出発地点から36リュー[約144キロメートル]以上の距離の場所に布陣しました」
Correspondance du maréchal Davout, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=XRJBAAAAYAAJ" p220
 
 他の報告書を見る限り、ダヴーはアウステルリッツの戦い後、遅くとも12月13日にはプレスブルクへ戻り、28日まではそこにいたことが分かる(p229-239)。つまりこの報告書はアウステルリッツの戦いから数週間後に書かれたものであり、比較的古い史料である点において信頼度は高いと判断できる。さらに同じ報告の中でダヴーは「36リューの道のりを36時間以下で通り過ぎた」(p224)とも記しており、この強行軍に対するダヴー自身の公式見解がこの数字であると見ていいだろう。
 他の史料はどうか。例えばマテュー・デュマのPrécis des événements militaires ou essais historiques, Tome IV."http://books.google.co.jp/books?id=_kxj8z937PAC"には「ダヴー元帥率いるフリアン師団は40時間で36リューの行軍をした後で1日から2日にかけての夜間にライゲルン修道院に到着した」(p140)としている。距離はダヴーと同じだが、時間はダヴーより長い。第33歩兵連隊の連隊史には「12月1日夕、[フリアン]師団は48時間に36リューを移動した後で割り当てられた地点に到達した」(Extrait de l'historique du 33e régiment d'infanterie"http://books.google.co.jp/books?id=wwIVr6fMNSUC" p33)とあり、これまた時間が違っている。
 でもダヴーの指摘した36リュー、即ち約144キロメートルという距離については見解が一致しているのでこれで正解だ、と簡単に言えないところが問題。Die Eisenbahnen in Europa und Amerika"http://books.google.co.jp/books?id=kro1AQAAMAAJ"という、ベルリンなどで発売された書物によれば、ウィーンからライゲルンまでの距離は18マイル(p80)とある。出版の地であるプロイセンのマイル"http://de.wikipedia.org/wiki/Alte_Ma%C3%9Fe_und_Gewichte_(Preu%C3%9Fen)"で計算すれば135キロメートル、オーストリア・マイル"http://en.wikipedia.org/wiki/Austrian_units_of_measurement"なら136キロメートル。いずれもダヴーの紹介した数字より短い。
 しかも同書p109-110を見るとこの18マイルという距離は、実はルンデンブルク(現ブジェツラフ"http://en.wikipedia.org/wiki/B%C5%99eclav")経由の数字であることが分かる(ウィーン~ルンデンブルクが11マイル、ルンデンブルク~ライゲルンが7マイル)。google mapで調べると現代の道路を使えばそれぞれ80キロメートルと50キロメートルになる訳でやはりDie Eisenbahnenの数字の方がダヴーの数字より近い。おまけに実際にダヴーは行軍したのは、ルンデンブルク経由より近道となるニコルスブルク(ミクロフ)経由である。
 フリアン将軍の伝記Vie militaire du lieutenant-général comte Friant"http://books.google.co.jp/books?id=r7_-1jyM8vIC"によれば「[霜月8日午後]9時、フリアン将軍は宿営地[ウィーンのレオポルダウ=シュピッツ]を出発し、翌日同時刻にニコルスブルクに到着した。その師団は18リューを移動した」(p97)とある。Relation de la bataille d'Austerlitzにも「エックミュール公は[11月]30日にフリアン伯及び竜騎兵2個師団とともにニコルスブルクに到着した」(p42)と書かれている。そしてニコルスブルク経由でのウィーンとライゲルンの距離はgoogle mapで調べると約120キロメートル。5キロメートルほど上乗せがあるとしてもダヴーの主張に比べれば20キロメートルも短い。
 さらに問題はフリアンの伝記にある宿営地からニコルスブルクへの距離「18リュー」だ。これはウィーン中心部からの現代の地図における距離(79キロメートル)よりさらに短い。実は現在の地図でレオポルダウを探すと、ウィーンの中心部があるドナウ南岸ではなく北岸にこの地名が見つかるのだ。フリアンが宿営していた「レオポルダウ=シュピッツ」がもしこのレオポルダウだとしたら、google mapでの距離はさらに10キロメートル短縮され110キロメートルまで短くなる。ダヴーが報告書で「盛った」数字は、実はかなり大きかった可能性があるのだ。
 時間の問題も見逃せない。ダヴーの言う36時間が何を論拠にしたものであるかは不明だが、少なくともフリアンの伝記ではレオポルダウ=シュピッツからニコルスブルクまでで24時間が経過。さらに「[霜月]10日夜9時、彼は縦隊の先頭とともにライゲルン修道院の前、ブリュン街道の右側でツァッツから4分の1リューのところにいた。彼は11時に陣を敷いた」(p97)とあるため、ライゲルンへの到着はどう早く見ても48時間を費やしたことになる。第33歩兵連隊の記録が時間に関しては最も正確だった、ということになる。
 ダヴーが数字や時間を盛り上げたのは自分だけのためではないだろう。むしろフリアンらの活躍をアピールする目的こそが中心だったと思われる。当時の報告書は何があったかを上官に知らせる点もさることながら、部下たちの誰が成果を挙げ、昇進や褒賞の対象となるかを伝える面もあった。そのために多少数字を華やかにするくらい、おそらく珍しくはなかっただろう。少なくとも敵の砲門数を倍増して報告していたボナパルトに比べれば、この程度はかわいいものだ。
 もちろん、そうした点を踏まえてもなお48時間に110~115キロメートルほどを歩いたという事実が凄まじいことは否定できない。少なくとも私はやりたくはない。
 
 1805年戦役に関する史料集をまとめたAlombertが書いたLe Corps d'Armée aux Ordres du Maréchal Mortier"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k8730687"には、脚注でダヴーの強行軍に関する説明が記されている。それによるとナポレオンの命令が第3軍団の司令部に着いた時、実はダヴーはプレスブルクのギュダン師団のところに行っていて留守だった。ダヴー自身の報告書にもそう書いてある(Correspondance du maréchal Davout, Tome Premier, p219-220)。
 命令に対処したのは第3軍団参謀長のドルタンヌ。彼は元帥の帰還を待たずにフリアン師団の行軍を始めており、ダヴーが夕方に戻ってきた時には既にフリアン師団はブリュンへ向けて移動していた(Le Corps d'Armée aux Ordres du Maréchal Mortier, p277n)。ドルタンヌの判断がなければ、ダヴー軍団のアウステルリッツへの到着が遅れ事態が変化していた可能性もある。その意味でダヴーは幸運だったと言えるだろう。組織としての底力が試される戦争において、あまり特定個人の功績ばかりを持ち上げるのは適切な評価方法ではない。
 
 まだ続く。
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