ヴィシャウの戦い

 今月号のアワーズだが、ようやくドリフターズで火薬が使われた。以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/50957946.html"で触れてから3年強。もうそんなに経過していたのかと驚いてしまったが、何にせよきちんと使われる場面が描かれて良かった良かった。
 ちなみに最後の方に載っている歩兵の白兵突撃シーンだが、斧を振りかざして戦う場面はまさにバイユーのタペストリー"http://www.tapisserie-bayeux.fr/"に出てくるハロルド軍"http://www.allposters.de/-sp/King-Harold-s-Foot-Soldieres-with-Spears-and-Battle-Axes-Bayeux-Tapestry-Normandy-France-Poster_i2657392_.htm"。これで楯さえ構えていれば完璧だったんだが、贅沢は言うまい。
 
 さてナポレオン漫画だが、いよいよこれはアウステルリッツを再度やるつもりとしか思えない展開になっている。というかここまでやっておいて本戦省略だと竜頭蛇尾すぎて拙いくらい。もちろん私としては大歓迎だ。
 という訳で史実との比較。まず11月27日に連合軍がオルミューツを出発したという話は史実と見ていい。例えばシュトゥッテルハイムのDie Schlacht bei Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=wFQUAAAAYAAJ"によれば、最初は24日に行軍命令が出され25日から行軍を始める予定だったが、準備に余分な2日間を要したため出発は27日午前8時になったという(p20-21)。
 1822年出版のÖsterreichscher militärische Zeitschrift"http://books.google.co.jp/books?id=76NgN095PV4C"に収録されているCarl SchönhalsのDie Schlacht von Austerlitzには「食糧を持ってくるのに数日かかったため、軍の出発は27日に延期された」(p255)とあるし、1883年出版の同誌"http://books.google.co.jp/books?id=36EqAAAAYAAJ"でも11月27日からの前進について書かれている(p91-92)。ロシア側の記録に基づいて書かれたRelation de la campagne de 1805"http://books.google.co.jp/books?id=Q-1OAAAAcAAJ"でもオルミューツ出発はユリウス暦11月15日、つまりグレゴリオ暦27日となっている(p213)。
 そしてこの漫画の中で、またもや時間関係の前後入れ替えが起きていたことが分かる。先月号に載っていたツァーリの使者ドルゴルーキーとナポレオンとのやりとりがそれだ。
 ナポレオンの命令で執筆されながらも結局彼の在位中には出版されなかったRelation de la bataille d'Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=Q9xDAAAAYAAJ"によれば、連合軍のところに送り出されていたサヴァリーが29日の正午に戻り、ドルゴルーキーがフランス軍の前哨線まで来ることになっていると伝え、ナポレオンが実際にそこまで赴いたという(p41)。ロシア側もRelation de la campagne de 1805の中でサヴァリーの到着とドルゴルーキーの派遣はユリウス暦17日(グレゴリオ暦29日)だと記している(p218-219)。
 つまりドルゴルーキーがナポレオンとやり取りを交わしたのは、連合軍の前進が始まった後なのだ。漫画では先にドルゴルーキーと会談し、その後で連合軍の前進が始まったという並びになっているものの、史実は逆である。まあこれまでもアブキールを前倒しにするなどの例があったから、さして珍しい話ではない。
 先月号でドルゴルーキーが「イタリアとライン川左岸、ベルギーと引き換えなら」と話しているのはセギュールのUn aide de camp de Napoléon"http://archive.org/details/unaidedecampden03sggoog"が元ネタだろう(p242)。またRelation de la bataille d'Austerlitzでもドイツ、イタリア、ムーズ河畔についての言及がある(p41)。一方サヴァリーは会話の内容には言及せず、「ドルゴルーキー公は彼に任されたメッセージを伝えるマナーにおいて気配りに欠けていたようだ」(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Deuxième."http://books.google.co.jp/books?id=XoEvAAAAMAAJ" p196)と述べるにとどめているが、友好的でない会話だったことは認めている。
 
 このアウステルリッツの前哨戦に関しては、もう1つ言っておかなければならないことがある。それはこちらのwikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Wischau"の記述だ。このヴィシャウの戦いはアウステルリッツへと前進する連合軍がフランス軍前衛の騎兵と戦ったものだが、なぜか日付が連合軍の進軍開始前、11月25日になっている。
 ちなみにフランス語wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Wischau"によればヴィシャウでの戦闘が行われたのは11月28日。これは連合軍が進撃を始めた翌日のことであり、そして各種史料を見てもおそらく正しい日付である。例えば12月3日付で出された大陸軍公報第30号には、ヴィシャウに対する攻撃が「霜月7日[11月28日]午前9時」("http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ" p446)に行われたとある。
 もちろんナポレオンの公式記録と言うべきRelation de la bataille d'Austerlitzでも28日にロシア軍がヴィシャウのフランス軍前哨線を攻撃したとある(p31)し、ロシア側のRelation de la campagne de 1805でもユリウス暦11月16日(グレゴリオ暦28日)にバグラチオン率いる前衛部隊が攻撃したと書かれている(p214)。オーストリア側の史料では1822年出版のÖsterreichscher militärische Zeitschriftも(p258)、1883年出版の同誌でも28日に攻撃が行われたと記されている(p101)。
 戦闘参加当事者の記録も同じだ。1805年戦役で第4軍団の砲兵部隊に所属していたピオン=デ=ロッシュは、回想録"http://books.google.co.jp/books?id=LAAxAQAAIAAJ"において、やはり霜月7日にヴィシャウで攻撃されたと記している(p158)。同じ第4軍団で師団を率いていたティエボーの回想録第3巻"http://archive.org/details/mmoiresdugnralb01calmgoog"にも、ヴィシャウへの攻撃は28日だと書かれている(p444)。要するにどの史料を見てもヴィシャウの戦闘は11月28日だと考えるしかないのが実態なのだ。
 ではなぜwikipediaは「11月25日」と記したのだろうか。wikipediaが参照文献として取り上げているのはDigby SmithのNapoleonic Wars Data Book"http://www.amazon.co.jp/dp/1853672769"で、実際に同書の記載を見るとp215にそうした記述がある。同書以外にもそう書いている本はあり、例えば1947年出版のRevue historique de l'armée"http://books.google.co.jp/books?id=AXMvAAAAMAAJ"には「11月25日のヴィシャウに対するコサックの奇襲攻撃」(p37)という表現がある。
 こうした認識が広まるうえで影響があったのではないかと疑われるのが、Henry Lachouqueが1961年に出版したNapoléon à Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=gYYOAQAAMAAJ"だ。「この朝、11月25日、トレイヤール旅団の前哨線が攻撃され崩壊した。ヴィシャウはコサック兵に囲まれた」(p230)と書かれているのだが、何せナポレオン関連では有名な筆者だけにその記述が無条件に信じられてしまった可能性がある。
 
 何か一つ、同時代性の高い史料を調べていればLachouqueの唱える25日説が間違いであることがすぐに分かっただろう。例えばシュトゥッテルハイムのDie schlacht bey Austerlitz。同書p30-31にはやはり28日にバグラチオンがヴィシャウへの攻撃を行ったことが明記してある。しかしそれを怠り、Lachouqueという権威を無条件に信頼してしまうと、思わぬところで足を取られることになる。歴史に関しては一次史料以上の権威はないと心の中で絶えず確認しておく必要があるんだろう。
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