最後のページでナポレオンが「お前たち、ここの地形を頭に叩き込め。ここが戦場になる」と言った元ネタはおそらくセギュールだろう。How Far From Austerlitz?"
http://books.google.co.jp/books?id=OAeCb7Wvq5sC"では「早ければ11月21日、ナポレオンは(セギュールによれば)士官たちに『諸君、この地形を注意深く調べたまえ。諸君はここで果たす役割がある』と述べたことになっている。
だがこの引用には、細かく言うと脱落がある。セギュールのUn aide de camp de Napoléon"
http://archive.org/details/unaidedecampden03sggoog"によれば、確かにナポレオンの台詞の前半は「諸君、この地形をよく調べたまえ!」、後半は「諸君にはここで果たす役割があろう!」となっているが、その間にもう1つの文章が挟まっているのだ。曰く「ここが戦場となるだろう!」(p239)。つまり、漫画で採用されている台詞だ。
問題は、困ったことにこの台詞の初出がセギュールではないこと。それ以前にサヴァリーがこの台詞を微妙に異なる形で紹介している。1828年に出版されたMemoires du Duc de Rovigo, Tome Deuxième"
http://books.google.co.jp/books?&id=XoEvAAAAMAAJ"には「諸君、地形をよく調べたまえ。諸君にはここで果たす役割があろう」(p169)という、セギュールとかなり似た文章がある。「ここが戦場となる」の部分以外に違いがあるとしたら「この地形」ce terrainと「地形」le terrainの部分くらいだ。いやそれすらも1829年出版のサヴァリー回想録第2版"
http://books.google.co.jp/books?id=_ABbAAAAQAAJ"では「この地形」になってしまい、セギュールと一致してしまう。
いずれにせよセギュールよりサヴァリーの方が古いのは事実。だから真偽を調べるならサヴァリー本を分析すべきなのだが、正直これがどこまで史実なのかはよく分からない。
1805年11月21日付で出された大陸軍公報第28号("
http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ" p428-429)によれば、皇帝は霧月29日(11月20日)午前10時にブリュンに入った。ロシア軍は騎兵約6000が後衛部隊となっていたが、フランス側の騎兵との戦闘に敗れ「数リューの距離を退却した」という。
サヴァリーはナポレオンがブリュンに入城した当日に両軍の騎兵による戦闘が行われ、その翌日に改めて後衛戦の戦場を見て回ったナポレオンが部下たちにしばしば「地形をよく調べたまえ」と話したのだとしている(p168-169)。つまりナポレオンによる戦場の下見は21日に行われたわけだ。セギュールの回想とも日付が一致している。
ただしそれを裏付ける史料がナポレオンの書簡集にあるわけではない。というかこの21日という日付で書簡集に採用されているのは上記の公報第28号のみ。現場の視察に忙しかったので手紙が書けなかった、と解釈することは可能だが、だとしても現場で皇帝が上記のような台詞を吐いた証拠にはならない。
連合軍側の記述はどうなっているだろうか。会戦の翌年に出版されたシュトゥッテルハイムのDie Schlacht bei Austerlitz im Jahre 1805"
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=jXVDAAAAcAAJ"には、ナポレオンが到着した20日時点のフランス軍の布陣として「ミュラ公の騎兵はブリュンとポゾルジッツ間で主要街道の左右に展開していた」(p15)としている。ポゾルジッツはプラッツェンの北方すぐ近くにあり、その付近にいたミュラの部隊が20日に連合軍と戦闘していたのだとしたら、その戦場を後から観察したナポレオンが結果的にアウステルリッツ会戦の下見をしていたと考えても辻褄は合う。連合軍が後衛戦の翌日である21日にヴィシャウを引き上げオルミューツに向かったという話(p12)も、フランス軍側の行動と整合性が取れる。
結局、サヴァリーの記述以外の論拠はないが、それを否定する史料も特に見当たらないという結果になった。ならば当面、この話は史実であると見てもいいだろう。正直言って信頼性には乏しいと思うが、それでもサヴァリーと、さらにセギュールという2つの一次史料が証拠として存在するのだから、史料を尊重するのが妥当だ。ただし個人的心象を述べるなら、話がよくできすぎているので、あまり史実だと思いたくない挿話である。
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