抜け駆け

 大河ドラマが久しぶりに戦争シーンを取り上げていたので史料をチェックしてみた。今回は西南戦争であり、戊辰戦争と違ってアジア歴史資料センター"http://www.jacar.go.jp/"の史料が使えるのは強み。早速行ってみよう。
 
 まず最大の見せ場だった佐川官兵衛だが、あちこちで指摘されているように彼は抜刀隊に所属していない。それどころかそもそも田原坂にもいなかった。ドラマでも最後に流れていたように、彼は阿蘇方面で戦っていた。彼が戦死した黒川口・二重峠の戦い"http://www.geocities.jp/seinan_eki/data/aso.html"は、阿蘇外輪山の西側(熊本から見れば東側)にある二重峠を巡る戦いだった訳で、熊本北西にある田原坂に彼がいた筈はない。
 彼の死についてはアジ歴にある「騒擾雑誌」で確認できる。3月20日に書かれた報告(C09086053700)によると、18日に政府軍は「二重嶺黒川村の賊を攻撃」するために出発。「佐川一等大警部二小隊を引て間道より(中略)黒川口に向う」とある。そして「払暁二手に別れ先隊黒川村にある賊の屯所に発砲するや否左右林[木越]の間に伏兵あり査兵頗る激戦する凡二時にして隊長佐川氏之に死す」と書かれているので、佐川が戦死したのはこの黒川村のあたりだろう。この日の戦いは政府軍側の完全な敗北だったようで、21日に久留米の本営で記された報告書(C09081784600)には「戦死三十名隊長士官以下八九名」とも書かれている。
 一方、抜刀隊については山県有朋が3月14日付で記した報告(C09081897000)に言及がある。それによると「田原坂の側面より攻撃し東京巡査百人を選で抜刀隊と名け砲戦の機に乗して賊塁に切り込ませ続て其数塁を抜き之を毀ち進て街道に沿て戦い僅に六七間の距離に過ぎず」という。この抜刀隊を編成した経緯については征西戦記(C13080008800)に詳しく、新たに到着した300人の巡査から100人を選んで(9/35)14日に最初の戦闘を行った。
 
「我か抜刀隊は川畑上田園田三警部各々自ら刀を揮い其衆を分率し(中略)賊の中央の塁に迫り三面一斉に衝突し縦横乱撃立どころに数十賊を斬る余賊塁を棄て走る乃ち奪うて之に拠る此塁や[鎮]台兵十数日の攻撃を費す所是日一撃之を陥る抜刀隊の功多きに居る世に所謂抜刀隊の切込実に本日を以て始と為す」(14-15/35)
 
 その後も抜刀隊としての活動は続いており、第二旅団の戦闘報告(C09083955800)には「十七日黎明砲車を砲台に配置し歩兵及び巡査抜刀隊吶喊勇進喇叭の合図を以て斉しく大小の放火を行うと雖ども賊天険に拠り防戦するを以て抜く能はす」とあるし、第一旅団の戦闘日誌(C09083521400)にも4月6日の戦闘で「賊の頑守する土塁を抜刀隊攻襲して之を取る(中略)此時巡査極めて驍勇なりし死傷するもの亦多し」といった話が紹介されている。
 それにしても西南戦争における「抜刀」比率は異常だ。政府軍だけでなく、当然ながら西郷軍側の抜刀隊に関する記録も多い(C09083964400とかC09083961200)。アジ歴の「西南戦役」フォルダで抜刀を検索すると173件も引っかかる。日清戦争フォルダの検索がたった1件しかないのに比べてもどこかおかしいレベル。戦国風の切り込みがまだ生き残っていた最後の戦いということかもしれない。
 ちなみに抜刀隊と無縁だったはずの佐川が抜刀隊と結びつけて語られるようになった時期は、実は結構古い。少なくとも1909年出版の近世偉人百話"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777624"には佐川が「西南の役、警視庁抜刀隊長となり、大に勇名を肥山に轟かす、人を斬る毎に大呼して曰く、戊辰の仇を復すと」(p245)という一文が書かれており、明治末年には佐川=抜刀隊伝説が出来上がっていたことが分かる。
 あとほぼ余談だが、wikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B7%9D%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B"に書かれている「佐川は抜刀隊編成以前に戦死している」という一節が間違いなのはこれまでの記述を見ても分かる。抜刀隊の初陣は3月14日、佐川の死は同18日である。
 
 ドラマではもう一人、斎藤一も抜刀隊に入っていたが、こちらももちろんフィクションだ。そもそも斎藤も佐川同様、豊後口で戦闘を行っており、田原坂にいた様子はない。新聞集成明治編年史第三巻"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920337"には8月22日付東京日日新聞に載っていた「豊後方面戦闘誌」なる記事が採録されているが、その中に当時藤田五郎と名乗っていた斎藤一の活躍が掲載されている。7月12日の三河内の戦闘で「警視二番小隊を二分し、半隊長藤田五郎半小隊を率て陸軍の兵と合し本道を進」んだ。そして「藤田五郎右翼の兵を率い福原峠を越え焼尾に至り、賊塁を撃て直にこれを抜き、又兵を高床に進め砲撃して之れに当る、この時藤田五郎銃創を負う」(p281)とある。
 この三河内村の戦闘についてはアジ歴の史料にもいくつか記載がある(C09083053100とかC09083751700)が、もちろん怪我をした下っ端の名前までは載っていない。戦死した佐川はともかく、佐川より下級の地位にあった一負傷者について言及するほど公式記録は丁寧ではない。
 
 もう一人、ドラマで活躍し、活躍しすぎて西郷と顔まで合わせてしまったのが山川浩。もちろん西郷と出会う場面はフィクションであるが、山川が包囲されていた熊本城へ一番乗りしたのは事実のようだ。4月14日に彼が書いた報告書がアジ歴で確認できる。と言っても手稿は達筆すぎてほとんど読めない状態であり、一方活字化してある方はところどころ明らかにおかしい文言が混ざっている。仕方ないので取りあえずこんな感じの文章ではないかというのを私なりに起こしてみたのが以下のもの。
 
「今午前十時川尻ノ火ヲ望ミ前面ノ賊勢ヲ撃スルニ頗ル狼狽ノ体アリ故ニ午後第二時直ニ加世川ヲ渡リタルニ一ノ賊兵ヲ見ス唯賊ノ後影ヲ認ムノミ依テ長駆熊本城ニ達セリ不取敢此段御報知申上候也
 四月十四日午後第四時三十五分
 熊本城ニ於テ記
 山川中佐
 山田少将殿」
(C09085593000)
 
 この情報は翌日には既に大阪を経て陸軍省まで伝わっていたようで、「昨日川尻を攻取リ山川中佐一中隊にて進み竟に熊本城に至る」(C09080656700)という一文が鹿児島事件軍略戦況なる史料に残っている。参謀本部が西南戦争についてまとめた征西戦記稿"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773375"には、「城兵一斉に鬨を作り旗を揮い掌を打て歓声城に満ちたり」(36-370/391)と熊本城の歓迎振りを記している。
 だが一方でこの熊本城到達は上官命令に反した抜け駆けだったようだ。同書では「初め黒田参軍諸将校に命して曰く十四日川尻を抜かは十五日を以て烽を木原山に揚たるを期とし諸旅団共同熊本に入るへし」と記し、この命令がなければ他の部隊が午前10時には前進してとうに熊本に達していただろうとしている。山川の突出は「若し賊をして備あらしめは此軽挙或は全軍の失敗を致」したかもしれないと他旅団の隊長たちの批判に晒され、「山田少将直ちに中佐を召し其の擅進を譴責し大に後来を戒め」たという(370/391)。
 それに対し近世名将言行録第一巻"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223763"は「当時、使を馳せて山田少将の許しを請い、使還って之れを許されたと佯り告げたから、遂に猛進して熊本城に達したものである」(261/269)と記している。残念ながらその論拠については「或人曰く」としか書かれていないためはっきりとしない。少なくとも陸軍の公式見解では山川の行動は命令違反だったのだろう。フランス革命戦争ではランダウ解囲を巡ってオッシュとピシュグリュが先陣争いをしたが、山川がどんな考えで抜け駆けをしたのかはよく分からない。
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