ヴァンデの共和国軍人 その7

7)シャルル=フランソワ・デュウー
 1736年ナンシーに生まれる。貴族出身。46年に9歳で士官になっているので、おそらく地方の軍事貴族だろう。61年に大尉。68年にいったん退役しているが、69年にはコルシカでまた軍務に就いている。71年に中佐。革命後の1791年にはmarechal de camp(少将)に昇進。92年には北方軍に所属していた。
 92年9月13日から29日までリールの守備隊指揮官を務めた。この時期にオーストリア軍によるリール攻撃が行われたが、それを撃退した後の10月10日に彼は職務を停止され、防衛戦中の行為について国民公会で弁明することを求められる。どのような行為が問題視され、それに対して彼がどう釈明したのかは不明だが、結果的に弁明は成功。93年3月18日に彼は元の地位に復帰した。
 1793年4月1日、予備軍に所属しヴァンデに赴任。4月上旬に始まった攻勢に参加する。ベリュイエ直率の部隊と行動していたデュウーだが、11日にシェミーエのサン=ピエール教会での戦闘時に負傷する。その後、しばらく動向不明。
 9月、マインツ部隊の到着を待って行われた攻勢にデュウーも参加する。ラ=ロシェル沿岸軍の1個師団を率いた彼はポン=ド=セを出発して17日にポン=パーレに到着。しかし、翌日には王党派軍の反撃を受けて敗北し、部隊はポン=ド=セまで退却を強いられる。デュウーは28日に職を辞した。11月13日に公安委員会により逮捕が命令され、18日にナンシーで逮捕された。
 デュウーが逮捕された理由として、Deniauは以下のような話を伝えている。ヴァンデの王党派軍には彼の甥が参加していた。その甥が弾薬不足に悩む王党派軍に対して冗談交じりに「叔父が弾薬を用意してくれる」と話したところ、それが共和国側にも伝わりデュウーの逮捕につながったのだという。彼はパリのアベイ監獄に収監された。
 テルミドールの反動後、退役。その後も彼は、もう一回だけ軍事活動に従事している。1795年のヴァンデミエールの際、デュウーは蜂起した王党派の指揮官の一人だった。かつてコルシカとヴァンデで肩を並べて戦ったベリュイエとは敵同士になったことになる。その後、1799年にパリで生きていたことは分かっているが、死亡年は不明。

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