シュルマイスターの現実

 承前。公文書館に残されている記録によればシュタインヘルから伝わったことになっている情報が、なぜ一部の書物ではシュルマイスターからの情報になっているのだろうか、という問題について。
 
 前回紹介したテリー・クラウディの本"http://www.amazon.co.jp/dp/488721782X"が、そうした書物の代表例だ。また、Ian CastleのAusterlitz"http://www.amazon.co.jp/dp/1844151719/"では情報源としてシュタインヘルの名を記しているが、なぜかシュタインヘルの身分は「ヴュルテンベルクの執政官」(p73)となっており、おまけに実際にはその情報は「シュルマイスターがウルムへ出発する前にシュトゥットガルトから送り出した手紙」(p74)に由来するとしている。
 Castleはこのあたりについて一切、脚注を示していないので、何が論拠なのかは不明だ。ただし彼が上げている参考文献は2002年出版の本"http://books.google.co.jp/books?id=K9JnAAAAMAAJ"や1987年出版の本"http://books.google.co.jp/books?id=4zEmAAAACAAJ"であり、一次史料を参考にした様子はない。一応、参考文献の中にはÖsterreichische militärische Zeitschriftに載っていたAngeliの文章も紹介されているが、どこまできちんと目を通したのか疑問を覚えるところではある。
 この話は新しい本にのみ見られるものではない。1859年に出たDeutsche Geschichte"http://books.google.co.jp/books?id=Lx2-BTTyYTgC"では、オーストリア軍が逃げ出すのを恐れたナポレオンが「よく知られた二重スパイのシュルマイスターをマックに送り、彼はパリでの反革命勃発、英国軍の前進及びナポレオンの迅速な退却という明白な嘘を伝えた」(p504)という。1861年出版のDer Feldzug des Jahres 1805"http://books.google.co.jp/books?id=8HpBAAAAcAAJ"では、シュタインヘルならぬシュタインハイルから送られてきた英国軍のブローニュ上陸情報について、「ナポレオンは悪名高い二重スパイのシュルマイスターを通じ、この情報で[マック]参謀長を勇気づけた」(p140)と脚注で説明している。
 
 古い時期、新しい時期、どちらに出た本も論拠が明白でないのは同じ。というか、この件についてきちんと論拠を説明しようとしている本は一冊しかない。以前にも紹介したFerdinand L. DieffenbachのKarl Ludwig Schulmeister der Hauptspion"http://books.google.co.jp/books?id=43kNAAAAQAAJ"がそれだ。彼は同書の中で先行する書物をいくつか紹介しており、その中にはHäusserやMorigglの本からの引用もある(p38-39)。
 しかしDieffenbachは過去の文献のみを論拠に「シュルマイスターがマックを騙した」と主張している訳ではない。同書p29には(前に引用したが)1806年7月8日と16日の最高戦争会議における記録が引用されており、そこではシュルマイスターが「[マック曰く]最も信用するスパイ」であり、「フランス沿岸に英国軍が上陸し、国内で革命が起きているとの情報がそこからウルムに伝わった」との文章が引用されている。そして同書の中には公文書館から送られてきた調査結果の文章が引用されている。
 それによるとマックはまずカール・ビュルガーマイスターとヨハン・リップマンという名で知られている2人のスパイについて質問され、どちらも知らないと回答している。その上でビュルガーマイスターは実際はシュルマイスターと呼ばれていたと思われ、マックが最も信頼するスパイだと言明していた人物であるとしている。彼はマックによってシュトゥットガルトへ送られ、そこから「フランス沿岸に英国軍が上陸し、国内で革命が起きているとの情報がウルムに伝わった」となっている(p93-94)。
 問題は、Dieffenbachが引用している文章が史料そのものではない可能性がある点。彼が紹介しているのは1877年1月9日付で書かれた公文書館からの手紙(p96)であり、引用部が史料をきちんと丸写ししたものなのか、それとも公文書館の職員が概要をまとめたものに過ぎないのか、見ただけでは判断できない。この手紙の中で間違いなくマックが回答したと思われる部分は引用符付きで紹介されているところだけなのだが、Dieffenbachが論拠として紹介した部分には引用符がない。
 また、私のドイツ語能力では正直よく分からないのだが、この文章が「シュトゥットガルトへ送られたシュルマイスターが情報を寄越した」という意味なのか、それとも「ウルムへ伝わった情報の出元であるシュトゥットガルトへシュルマイスターを送った」という意味なのか判別がつかない。Dieffenbachは前者であると解釈したわけだが、それで問題ないのかどうか、詳しい人の意見が聞きたいところだ。
 しかし何より問題なのは、Dieffencbachの本には一言も「シュタインヘル」が登場しないことだろう。情報をもたらしたのがシュタインヘルであるという話は、前回も紹介したようにマック自身の証言に基づいている。なのにシュタインヘルの名が出てこないのは流石に拙い。これを見る限り、Angeliが実際に史料を見ながら書いたのに対し、Dieffenbachは公文書館に問い合わせただけで実際に足を運んで自分の目で確認しようとしなかったとしか思えないのだ。
 
 もしシュルマイスターがマックを騙していなかったのだとしたら、彼は一体誰のために仕事をしていたのか。おそらく最初はオーストリア軍のために真面目にスパイ活動をしていたが、後にフランス側へと寝返ったのではないか、というのがLa campagne de 1805 en Allemagne, Tome Troisième, 1er Volume"http://archive.org/details/lacampagnedeena00coligoog"の採用している見解だ。
 13日にシュルマイスターのもたらした情報が正しかったことは指摘済み。だがマックはそれを採用せず、逆にシュタインヘルの胡散臭い情報を確認させるためにシュルマイスターをシュトゥットガルトへ送り出した。この時点でシュルマイスターはオーストリア軍司令部に見切りをつけ、むしろフランス側に渡りをつけることを優先した。後にシュルマイスターがサヴァリーに宛てた手紙(La campagne de 1805 en Allemagne, Tome Troisième, 2e Volume"http://archive.org/details/lacampagnedeena02coligoog")では17日にミュラと連絡を取ったと記されている(p1025)ので、その間の数日間に寝返ったと見られる。
 そもそもシュルマイスターはなぜ最初はオーストリア側についたのか。おそらく彼がストラスブールの市政府から追放処分を受けていたためだろう。フランスから弾き出された彼がオーストリア側に与しようとした可能性がある。従来の説ではこの追放はマックの信頼を得るための嘘の処分だったとされることが多いが、シュルマイスターがサヴァリーに書いた手紙では「特定の憎しみが妻、両親、2人の子供との静かな生活を私から奪った」(p1027)と訴えており、本気で追放された様子が窺える。
 自分を追放したフランスに敵対するため、オーストリアに情報を売りにいった。だがオーストリア軍は自分の正しい話を信頼せずに怪しい情報を採用した。それを見てオーストリア側についても意味がないと判断した彼は、むしろオーストリアの情報をフランス軍に伝えることでフランス側に恩を売り、追放を取り消してもらおうと考えた。おそらくはそんな流れだったのだろう。両軍に通じ、それぞれの情報を手に入れたうえで、いかにうまく立ち回るかを考えている「プロの情報ブローカー」としてのしたたかさが感じられる。
 そう、結果的にマックを騙したのはシュルマイスターではなかったが、だからと言って彼が無能だったわけではない点を忘れてはいけない。むしろ彼は、やはり有能なスパイだったと見るべきだろう。オーストリア側にあれだけ正確な情報を伝えた彼は、寝返った後はフランス軍にやはり正確な情報を伝え、時には同盟国であるロシア軍ですら把握していなかったオーストリア軍の動きをナポレオンに伝えたという(1805: Austerlitz"http://www.amazon.com/dp/1853676446" p66n)。一部の書物やこちらの動画"http://www.youtube.com/watch?v=3iw4mlOX5xs"で紹介されているような分かりやすい話は伝説・神話の類かもしれないが、彼の能力の高さはおそらく史実である。
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