シュルマイスターの伝説

 ナポレオニック関連の一次史料を調べるようになって以来、時に仰天することがあった。様々な書物で当たり前のように紹介されている話が実は一次史料の論拠に欠けていることが判明する度に、何じゃこりゃあと(心の中で)叫んだものだ。そしてまた、今回もそういった話を見つけてしまった。
 見つけたのはシュルマイスターに関する話。これまでもマックの書いた回想録に名前が見当たらない"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53800865.html"ことや、一方でシュルマイスターの伝記には一次史料からの引用らしきものがある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53853361.html"という話を紹介してきた。でも、今回はおそらくかなり確実だ。調べるのに手間取ったが、多分これが事実。ウルム戦役の決定的な瞬間にマックを騙したのは、シュルマイスターではない。
 
 一般的な書物では、ウルム戦役におけるマックの敗因をシュルマイスターの諜報活動に求めるものがよくある。一例がテリー・クラウディの書いた「スパイの歴史」"http://www.amazon.co.jp/dp/488721782X"。原題はThe Enemy Within"http://books.google.co.jp/books?id=jSC7GccDRtsC"だが、同書の中にはシュルマイスターの活躍について以下のように書かれている。
 
「10月11日にマックが遂にウルムを発して前進すると決断した時、彼は思いがけなくデュポン師団の形をしたフランス軍の抵抗に飛び込んでしまった。シュルマイスターはウルムを去ってシュトゥットガルトへ向かい、そこからマックに最も緊要と思えるメッセージを送り始めた。彼はマックに、ナポレオンの軍が退却しており、パリで革命が勃発し英国がフランス北部に軍を上陸させたと主張した――全て嘘だった。要するに、あらゆるよりよい助言にもかかわらず、ウルムに戻って事態を待つべきだとシュルマイスターはマックに確信させた」
p148
 
 クラウディがシュルマイスターの話について脚注で記しているソースはJean SavantのLes Espions de Napoléon"http://books.google.co.jp/books?id=pNQxGQAACAAJ"、及びRichard Wilmer RowanのThe Story of the Secret Service"http://books.google.co.jp/books?id=YfssAAAAMAAJ"だ。だがそれぞれの発行年を見れば分かる通り、どちらも20世紀に出版された二次史料である。本来ならもっと遡って一次史料を当たるべきだが、クラウディはその作業をしなかったようだ。
 一次史料はどこにあるのか。なかなか見つけられなかったが、今回それを探すべきキーワードを見つけ出した。キーワードはシュタインヘル(Steinherr)。この人名を使って探せば、実は容易に一次史料にたどり着ける。信頼性の高いÖsterreichische militärische Zeitschriftに引用されている一次史料に。
 1877年に出版された同誌"http://books.google.co.jp/books?id=1LsaAQAAMAAJ"のp395からMoriz Edlen von Angeliの書いたBeiträge zur vaterländischen Geschichte. IV. Ulm und Austerlitz.という文章が掲載されている。アーカイヴの史料を使った研究成果であり、その中にシュルマイスターについても触れられている。それによるとマックは10月13日午前10時にシュルマイスターから以下のような情報を受け取っていた。
 
「敵はウルム守備隊をメミンゲン及びティロルから切り離すため、一部をもってメミンゲンとケンプテンに前進を意図し、軍の残りでエルヒンゲンとアルベックへ突入しウルム周辺の高地を支配しようとしている」
p474-475
 
 ウルム戦役を知っている人間なら、これが大陸軍の動きを正確に伝えた情報であることは一目瞭然だろう。実際、大陸軍公報第5号続報によれば、葡萄月21日(10月13日)にスールト元帥がメミンゲン前面に到着し、同月22日(10月14日)夜明けにはネイ元帥によるエルヒンゲン橋渡河が行われている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième"http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ" p327)。シュルマイスターはこの情報にかなりの自信があったようで、その正しさを証明するため「自ら人質になることすら提案した」(Österreichische militärische Zeitschrift p475)ほどだ。そしてこの史料はオーストリアの戦争公文書館から引用されたものであること同誌脚注にきっちりと記されている。
 これは一体どういうことだろう。クラウディの本に代表される「シュルマイスターはナポレオンのスパイだった」説に従うなら、彼は嘘をついた筈である。それこそニセ新聞を用意してでもマックを騙すべきタイミングだった。にもかかわらず、オーストリア政府の公文書に残されているシュルマイスターは、大陸軍の正確な動きをオーストリア軍に伝えていた。ナポレオンのスパイどころか、ナポレオンにとって不利になりそうな情報を敵に流していたのである。
 同誌脚注ではさらに「マックがナポレオンによって送り込まれた二重スパイによって敵の退却を確信するよう勇気付けられたといういくつかの主張が誤りであることが、これによって証明されている。この件についてスパイのシュルマイスター以外にはマックも他の誰も言及しておらず、そして彼のみが正しい情報をもたらしたのだ」(p475)と指摘している。シュルマイスターがマックを騙したという説を完全に否定する見方だ。
 そして同誌と全く同じ見方を示しているのがLa campagne de 1805 en Allemagne, Tome Troisième 1er Volume"http://archive.org/details/lacampagnedeena00coligoog"。同書には「フランスの作戦に関して間違った指摘をマックにもたらしたのはシュルマイスターではない。逆に彼は立派に情報を伝え、そして彼の見解にもかかわらずマックは失敗に誘導された」(p194)とある。フランスの戦争公文書館関係者がまとめた本も、オーストリア側の同業者と同じ結論に至ったのだ。
 
 これらの話が正しく、「間違った指摘」をもたらしたのがシュルマイスターでないとすれば、一体誰がもたらしたのか。それが男爵(Freiherr)シュタインヘルだ。これまたÖsterreichische militärische Zeitschriftに掲載されている公文書(マックの発言)からの引用にはっきりと書かれている。
 
「[ドナウ右岸を西へ向かうという]敵のこれらの動きとその意図の異常さについて詳細に考えていたところ、午後になってOber-Landes-Commissairのシュタインヘル男爵が訪れ、とても善良で信頼できそうな(ごく最近までシュトゥットガルトにいた)ヴュルテンベルクの官吏の口から重要な情報を聞いたばかりだと私に話した。数日前に9人の伝令が1日の間にシュトゥットガルトを通過してフランス皇帝の下に向かい、そのうちの1人が彼自身に対し、英国軍がブローニュに上陸してこの港を奪い、同時にどこかで革命が勃発したことを密かに話した」
p472
 
 ウルムのあるドナウ左岸ではなく右岸を、しかもフランスへ戻るように動いている大陸軍の動向に首をかしげていたマックは、この説明に飛びついた。そして「シュルマイスターは、このあやふやな噂の存在を見定めるため、シュトゥットガルトへ向かうよう命令を受けた」(p475)。
 それぞれの内容だけを見るなら、正直言ってシュルマイスターの伝えた話の方がシュタインヘルの話より信頼度は高そうに思える。にもかかわらずマックがシュタインヘルの話を信用したのは、おそらく情報を伝えた人物の信頼度の差があったからだろう。フランス本国からやってきて情報を売ろうとしているスパイと、オーストリア軍司令部でそれなりの立場にある人物とでは、そりゃ上司の判断も変わってくる。だが不運なことに、この時は胡散臭い人物が正しい情報を、信頼できると思った人物が間違った情報を伝えていた。かくして「不運なマック」はウルムで成すすべなく降伏に追い込まれてしまった。
 
 それにしても、これまで書いた話が正しいのだとしたら、以前紹介した「シュルマイスターの伝記"http://books.google.co.jp/books?id=43kNAAAAQAAJ"に載っていた引用」はどう判断すべきなのだろうか。シュルマイスターから「ウルムに連絡が届き、英国軍がフランス海岸に上陸し、国内では革命が発生」したことを知らされたという、あの話は。その件については、長くなったので次回に。
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