R抜きかR入りか

 細かい話。ホラブリュンの休戦が放棄された後、フランス軍とロシア軍が戦闘を交えた。ホラブリュンにいたフランス軍とその北方にある小さな町に陣を敷いていたロシア軍との間で行われたこの戦いは、ホラブリュンの戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Hollabrunn"もしくは、ロシア軍が布陣していた場所の名を取ってシェングラーベルンの戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sch%C3%B6ngrabern"と呼ばれている。
 問題はこの「シェングラーベルン」という名前だ。現在の地名がSchöngrabernであることは、こちらの動画"http://www.youtube.com/watch?v=NSRAInHnwnw"や自治体サイト"http://www.gemeinde-grabern.at/system/web/default.aspx?menuonr=219019171"を見ても間違いないだろう。だが、この戦いについて過去に出版された本の中には、地名を「シェングラーベン」Schöngrabenとしている事例がたくさんある。
 最も分かりやすい例がトルストイの戦争と平和。最近出版された英訳本でも「シェングラーベン」という表記が堂々と登場している("http://books.google.co.jp/books?id=eUlEqrQAU3kC" p268)。原文のキリル文字をどう読めばいいのか私には分からないが、ドイツ語訳の戦争と平和でも同じ表記が使われている("http://books.google.co.jp/books?id=64k-VSUpNBsC" p37)限り、トルストイがR抜きの発音を採用している可能性は高い。
 
 一体どういうことなのか。この戦いについて書かれた文章のうち、R抜きで書かれた古い文献を探していくとEuropäische Annalen Jahrgang 1806, Zweiter Band"http://books.google.co.jp/books?id=VsJJAAAAcAAJ"にたどり着く。そこに紹介されているロシア軍報告書の中に「シェングラーベンで指揮を執るフランスの将軍から」(p221)という文言が見つかる。同じく1808年に出版されたドイツ語文献にも同じロシア軍報告書が掲載され、やはりシェングラーベンという表記が登場している(Historisch-militärisches Handbuch für die Kriegsgeschichte der Jahre 1792 bis 1808"http://books.google.co.jp/books?id=82BDAAAAcAAJ" p245)。
 1806年には英語文献にもR抜きの地名が登場する。The political picture of Europe"http://books.google.co.jp/books?id=YtBbAAAAQAAJ"の中にSchoengrabenという文字がはっきりと書かれているのだ(p56)。明白にロシア軍報告書からの引用と分かるものが出てくるのは1810年出版のEncyclopaedia Londinensis"http://books.google.co.jp/books?id=depJNoNQrq8C"(p881)や、1815年出版のHistory of the wars resulting from the Frenchrevolution, Vol. II."http://books.google.co.jp/books?id=72QIAAAAQAAJ"(p116)になってからで、この報告書の著者がドルゴルーキー公であることが分かる。要するに、古いR抜き地名はその多くがロシア軍報告書の影響を受けているのだ。
 一方、R入り地名を含んだこの戦いの記述はどうかというと、これも結構古くまで遡れる。1806年出版のKurze Übersicht der Geschichte des zwischen Frankreich und Oesterreich"http://books.google.co.jp/books?id=ySpPAAAAcAAJ"に「シェングラーベルン村」Dorf Schöngrabern(p172)という文言がはっきりと載っているのだ。
 フランス語文献では1819年出版のVictoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Francais, Tome Quinzième"http://books.google.co.jp/books?id=XjYxAQAAIAAJ"にR入りの地名が登場(p213)、オーストリアの有名な軍事雑誌Oestreichische Militärische Zeitschriftの1822年本"http://books.google.co.jp/books?id=76NgN095PV4C"にも、やはりR入り地名が採用されている(p250)。
 
 R抜き地名の大半がロシア軍報告書に由来しており、そして地元であるドイツ語文献が(ロシア軍報告書を紹介したものを除いて)R入り地名を採用している点を踏まえるのなら、本来の地名は現在と同じR入りであり、R抜きはたまたまロシア軍がその記述を使ったために戦闘後に広まった表記ではないかとの推測ができる。ところが現実はそう簡単にはいかない。
 1805年より前の文献を探しても、R入りとR抜きの両方の記述がいくつも見つかるのだ。中には1769年出版のTopographie von Niederösterreich"http://books.google.co.jp/books?id=e8AAAAAAcAAJ"のように、同じ本の中にR入り(p246)、R抜き(p221)の両方が採用されているものがあったりするくらいだ。実に困った。
 あくまでR入りが本来の記述であり、R抜きは間違ったものと考えたいところだが、実際には1777年出版のSupplementum Codicis Austriaci"http://books.google.co.jp/books?id=QvVFAAAAcAAJ"のように、近所の他の地名(ホラブリュン、シュトッケラウ、イェッツェルドルフなど)と並べて何度もR抜きの地名を紹介している本もある(p1108)。ここまで確信を持ってR抜き表記をしている点は、どう評価すべきだろうか。
 
 以前、現在はトイグン(Teugn)と呼ばれている地名について書いたことがある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/41284762.html"。その際には、今でこそトイグンという表記が正解になっているが、昔の文献ではトイゲン(Teugen)としていたものも結構あったという事実を指摘した。実際、日本もそうだが欧州でも時間とともに地名が変わることは珍しくない。まして200年前のように識字率が低かった時代となれば、地名の表記はそもそも曖昧かついい加減だった可能性は高い。
 上に紹介した動画を聞いても、R入り地名であっても発音は「シェングラーベン」に近いことが分かるだろう。まして200年以上前、ろくに文字も書けない村人ばかりがいた時代であれば、ロシア軍が地名を確認するために耳で聞いてそれをそのまま文字に起こした可能性は否定できない。いやもしかしたら同じドイツ人であっても、発音通りにR抜き地名を採用して全く疑わなかった人もいるかもしれない。要するに地名の細かい違いを追及しても、あまり意味はないのだろう。
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