ミュラと休戦

 承前。連合軍を追撃するフランス側と、逃げようとするロシア側の間で、ホラブリュンにおいて休戦が結ばれたのは史実と見てよさそうだ。休戦協定の内容がフランス語(Campagnes de la Grande-Armée et de l'Armée d'Italie en l'an XIV"http://books.google.co.jp/books?id=OI47AAAAcAAJ" p264-265)とドイツ語(Die Franzosen in Wien"http://books.google.co.jp/books?id=O1JBAAAAcAAJ" p86)でそれぞれ確認できる。
 この休戦はミュラの参謀長であったベリアールと、ロシア皇帝副官のヴィンツィンゲローデの間で締結された。内容は大雑把に、ロシア軍はドイツから退却しミュラはモラヴィアへの進軍を止めること、ナポレオンによる批准まで両軍は現在位置に留まること、そして休戦が受け入れられない場合は4時間前に休戦破棄を伝えること、の3点だ。締結されたのは上記のフランス語文献によれば1805年11月15日、ドイツ語文献では16日。後に紹介する史料を見る限り、おそらく15日が正解だろう。だがこの話を巡る問題点は日付にはない。
 
 ミュラは休戦に関し、刻々とナポレオンに報告を送っている。まず15日の日付がある報告では、彼がホラブリュンから敵を追い出した後で「オーストリア軍の使節が私にロシア軍から離れることを申し出、私が与えた許可によりそれが実行された」(Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat"http://archive.org/details/lettresetdocumen04mura" p153)。このオーストリア軍は、おそらく後に紹介するクトゥーゾフの報告に出てくるノスティッツ将軍麾下の軍だろう。そしてその直後、今度はロシア側からの働きかけがある。
 ミュラによれば彼に面会を求めたヴィンツィンゲローデは「降伏(capituler)を申し出た」(p153)。ミュラはそれを受け入れ、条件を定めたうえでナポレオンにその事実を伝えた。ミュラはこの降伏がナポレオンの目的である平和への予備的協定になると信じるとともに、敵軍が夜間に逃げ出すのを止める能力が自分にないと主張している。「なぜならスーシェ師団は6時にならなければ戦闘準備できず、スールト元帥の軍団は私から2リューも離れている」(p153)から、というのが彼の主張だ。
 一方、クトゥーゾフは休戦の経緯について、一部はミュラと同じ、一部は異なる説明をしている。クトゥーゾフが17日付でオーストリア皇帝フランツに記した報告によれば、まずノスティッツ将軍が「[フランツ]陛下とフランスとの和平が締結されたという敵の保証に騙され、弱気にも自ら後退し、かくして敵はバグラチオンに自由に襲いかかれるように」(Mittheilungen des K. K. Kriegs-Archivs, III. Jahrgang. 1798"http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ" p333)なった。部隊を危機から救い出そうとしたとき「何よりありがたいことに、フランス軍が自らの優位にも関わらずバグラチオンに休戦を申し出た」(p333)という。
 アレクサンドル皇帝に宛てた手紙ではもう少し詳しい経緯が記されている。それによれば「両軍が砲撃している間に、ミュラ将軍[ママ]が休戦を申し出るための伝令を送り出した。バグラチオン公はこの伝言を即座に私に伝え、私は提案してきた条件が有利なら交渉に入り休戦を結ぶようにとの命令を副官ヴィンツィンゲローデ男爵に与え、急ぎ彼をミュラ将軍のところへ送り出した」(Mémoires posthumes du feldmaréchal comte de Stedingk, Tome Deuxième."http://books.google.co.jp/books?id=UTICAAAAYAAJ" p125、ドイツ語はHistorisch-militärisches Handbuch für die Kriegsgeschichte der Jahre 1792 bis 1808"http://books.google.co.jp/books?id=82BDAAAAcAAJ"のp245参照)。ミュラの肩書きを元帥ではなく将軍と記しているが、基本的にフランツ皇帝に宛てた手紙と同じ説明、つまり休戦の申し出がフランス側から成されたという説明になっている。
 
 ミュラによればロシア側が「降伏」を、クトゥーゾフによればフランス側が「休戦」を申し出たことになっており、両者の主張が矛盾しているのは明白だ。なぜそうなっているのか、考えられる理由は3つほどある。ミュラが嘘をついているか、クトゥーゾフが嘘をついているか、あるいは実際に休戦を結んだベリアールとヴィンツィンゲローデが口裏を合わせて上司たちを騙したか。
 以下は個人的想像だが、最もありそうに思えるのは「クトゥーゾフが嘘をついた」だと思う。そもそもこのタイミングで休戦を結ぶメリットがあるのはロシア側であり、フランス側にはあまりメリットはない。だからロシア側から話をもちかけたと考えるのが自然だし、そのことをクトゥーゾフが知らないというのも考えにくい。偽りの「降伏」でフランス軍の足を止め、その間にロシア軍主力が脱出する。そのうえで「お前に降伏すると約束したな、あれは嘘だ」と言えば終わりだ。
 だがなぜ彼は上司であるアレクサンドルに、この「武略」を正直に説明しなかったのだろうか。一つにはクトゥーゾフが非常に政治的動きに長けた人物だったことがあるのだろう。武略とはいえ自分から降伏を申し出たという事実が上司にバレると彼を嫌う人間がそれを利用しかねない。だから休戦はフランス側から持ち出したことにしておいたのではなかろうか。穿ちすぎかもしれないが、少なくともバルクライは、クトゥーゾフの下では陰謀と党派的動きが生まれると主張している(1812: Napoleon’s Fatal March on Moscow"http://books.google.co.jp/books?id=qfG9f_mQGIgC" p251)。クトゥーゾフ自身がそういう動きを得意とする人間だったからであろう。また、クトゥーゾフは上司であるアレクサンドルと折り合いが悪かった。
 次に可能性が高いのは、ベリアールとヴィンツィンゲローデが上司たちを騙したというパターンだ。その場合、休戦は部下である彼らが合意のうえで勝手に進めたことになる。ただこの可能性はあまり高いとは思えない。確かに物事をスムーズに進めるために部下が上司を適当に誤魔化しながら仕事を進めるケースはありうる。だがそれは上司の容喙が事態を面倒にする場合だけであり、休戦というそれ自体が重要な問題に関して部下が勝手に動くのは考えにくい。むしろ上司に球を投げてきちんと責任を取らせるように動く方が、組織人としては普通に見られる行動ではなかろうか。
 そしてミュラがナポレオンを騙し、自ら休戦を呼びかけた可能性は最も小さいと思う。基本的にフランス側にとって休戦のメリットが限られている(増援到着まで時間を稼げるといったレベルでしかない)ことを踏まえるなら、そう考える方が妥当だろう。実際、この休戦を知らされたナポレオンからは、漫画にも描かれているように激しい叱責が浴びせられている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième."http://books.google.co.jp/books?id=sm6H4Q-XnUwC" p415-416)。それだけのリスクを背負って敢えてナポレオンを騙す必要が、ミュラにあるとも思えない。
 中にはタボールで成功したミュラが、同じ計略を仕掛けようとして失敗したと見る向きもある。しかし前にタボール橋を巡る問題で紹介したように、あそこで計略を仕掛けたのはミュラではなくベルトラン。ミュラは単にベルトランを後から少し助けてその成果を受け取っただけだ。タボール奪取は、この手の「騙し」にミュラ自身が長けていたことを示す証拠にはならない。
 
 それにしても一連の出来事を見て感じるのは、ミュラという人間の「人の良さ」である。そもそもホラブリュンでロシア側が「休戦」ではなくいきなり「降伏」を申し出てきた時点で、底意地の悪い人間ならむしろ怪しいと思うだろう。だがミュラはそれにあっさり飛びつき、これでナポレオンが目指す栄光ある和平が近づいたと考えてしまった。クトゥーゾフにしてみれば赤子の手をひねるようなものだっただろう。ナポレオンにとっては頭を抱えたくなる事態だったに相違ない。
 もっともミュラのそうした「人の良さ」は、ナポレオンも把握していたのではないかと思われる。古い付き合いだったミュラに対し、ナポレオンは後にセント=ヘレナでミュラとネイを比べ「ミュラの方がネイより高貴な性格の持ち主だった。ミュラは寛大で率直だった。ネイは悪党の性格を帯びていた」"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/del.html"と述べている。高貴で寛大で率直な性格の持ち主が、戦争における騙しあいに向いているとは思えない。
 ナポレオン自身はむしろ「悪党の性格」に近かったんだろう。少なくともクレベールはナポレオンが情に欠け、しかし愚かではないと考えていた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54121137.html"。だからこそナポレオンにはクトゥーゾフが仕掛けた計略がすぐ読み取れたし、あっさり騙されたミュラを批判もしている。また、もしかしたら参謀長でありながら「人の良い」ミュラの蒙を開けなかったベリアールにも責任はあるのかもしれない(Le lieutenant-général comte Belliard"http://archive.org/details/lestatsmajorsde00derrgoog" p331)。いずれにせよ「いい人」必ずしも「いい軍人」に非ず、というのが戦争の現実なんだろう。
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