ミュラとウィーン

 久しぶりにナポレオン漫画の話を。このところ海戦メーンだったのでパスしていたが、今月から陸戦に戻ったので。まずはミュラに焦点を当てた話だが、ウィーン入城とホラブリュンの休戦という、彼にとっては格好の悪い話が相次いでいた。元々道化みたいな格好で描かれているので別に違和感はないのだが、この2つの挿話の間にタボール橋奪取という成功例があったことには言及しておこう("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53858725.html"と"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53862573.html"参照)。
 
 ウィーン入城に関してナポレオンがミュラを叱責したのは事実。彼が共和国暦14年霧月20日(1805年11月11日)3時半にメルクから出したミュラ宛の命令には、以下のように記されている。
 
「我が従兄弟よ、そなたのやり方は承諾できない。そなたは考えなしに進み、私がそなたに与えた命令を熟慮していない。ロシア軍はウィーンをカバーする代わりにクレムスでドナウを再渡河した。この異常な状況からそなたはさらなる命令なしに行動できないことを理解するべきだった。おそらくそうする価値はあった。敵がどのような計画を抱き得るのか、この新たな状況に対する私の意思がどうであるかを知らなかったのなら、我が軍をウィーンに突撃させることもありだろう。だがそなたはベルティエ元帥を通じ、ロシア軍の背後に剣を突きつけながら追撃するようにとの命令を受けていた。強行軍で遠ざかるように彼らを追撃するとは、奇妙なやり方ではないか。これらの命令は彼らがクレムスへ移動しているとそなたから連絡を受けて以来、そなたに与えてきたものである。そなたの行動をどう説明したものか、私には理由が分からない」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième."http://books.google.co.jp/books?id=sm6H4Q-XnUwC" p392-393
 
 こういう文章を見ると、本当にそういう命令が出ていたのかを調べたくなるのだが、残念ながらナポレオン書簡集に採録されているナポレオンの命令を調べても3日前に出された短い命令しか見つからない。そこでナポレオンは「敵は強力過ぎる抵抗を見せることはないと想定されるため、哨兵をウィーン森の端まで押し出せ。密集を維持し、スールトと接近せよ。ベルナドットは明日にはアムシュテッテンに到着するだろう。そなたのニュースを送れ」(p287)とミュラに命令している。
 ロシア軍に関しては「もしロシア軍がドナウを再渡河していたのなら、彼らはモルティエ元帥が渡河したことを知り、左岸からウィーンをカバーしようとする可能性がある。可能な限り多くのロシア兵[捕虜]を集めようと試みよ。彼らが到着するのを見るのは私にとって大いなる喜びであり、既に500人から600人がいる。だが今に至るまで極めて少ない数しか到着していない」(同)と述べている。確かにロシア兵を集めろと言っているが、その前に哨兵をウィーンに押し出せとも書いており、明確な追撃命令とまでは読めない。
 とはいえ、そういう命令がなかったとまでは言い切れない。後にミュラがウィーン進軍を決定した11月11日付でナポレオン宛に出した手紙には、「参謀長は私にロシア軍を追撃するよう言いましたが、ウィーンを通り過ぎてそうすることはできません」(Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat, IV"http://archive.org/details/lettresetdocumen04mura" p138)という一文がある。ナポレオン名ではなく、ベルティエ名で追撃命令が出ていた可能性は十分にある。
 その報告書の中でミュラは「肯定的なものは何も受け取っていない」としながらも「あなたの意図に従った行動をしていると確信している」と述べており、ウィーンへの進軍がナポレオンの意図に合ったものだと強く強調している。またウィーンの「門を守っているのは国民衛兵であり、私はそこから1リューしかない場所にいる」と指摘。「表立った、あるいは秘密裏のいずれでもいいので、入城命令を待っています」と書いている。彼の「確信」が何に基づくのかはよく分からないが、どうやら彼は文字通りの「確信犯」だったようだ。
 
 ミュラのウィーン入城へのこだわりは、ロシア軍がクレムスへ向かったと伝えた9日時点の報告書(p134-135)の中に既に現れている。彼はクレムスへの道を取ると「オーストリア軍を恐れることになろう」と述べる一方、「明日、スールト元帥の軍団がクレムス街道を守れる範囲に来たところで、私はウィーンへの行軍を続けます。既にオーストリア軍の名で戦闘をしないとの命令を伝えてきた使者を前哨線で迎えているそちらの方が安全です」(p135)と指摘。ロシア軍については「ドイツ皇帝がもはや戦わないとの決意を宣言している以上、彼らはロシアに後退するしかない」と見ている。
 さらに10日午前1時の報告(p136)でもウィーンのことしか述べず、同日午後6時の報告(p137-138)でもやはりウィーンの話が真っ先に登場している。一方、ロシア軍については最後の方に「ロシア軍追撃のため送り出したロジェ将軍が今、彼の旅団とともに戻り、彼らがドナウ左岸に後退しクレムスの橋を焼いたと伝えました」と付け加えるだけにとどめている。10日の日付があるが、書かれた場所(ヒュッテルドルフ)を見るにもしかしたらもっと後に書かれたものかもしれないと思われる報告(p139-140)でも「[ウィーンへの進軍]命令が届かないのに絶望している」とまで書いており、とにかくひたすらウィーンへ行く気満々なのが文面からこれ以上ないほど明確に伝わってくる。
 今月号の大陸軍戦報には、ナポレオン自身が判断を間違った結果としてデュルレンシュタインでモルティエが敗北を喫し、その結果として激怒したナポレオンが「理不尽な理由をつけて、騎兵総司令官のミュラを激しく叱責した」としている。あるいはミュラの行動について「ミュラは結局のところ最善を成した、なぜならリンツとウィーンを除いて橋はなく、船隊はまだクレムスより下流には下っておらず、何よりも素早い渡河のためには極めて不十分な数のボートしかなかったため、ロシア軍を密接に追撃するのは困難だったからだ」(The History of Napoleon the First: Vol. III."http://books.google.co.jp/books?id=SI0XAAAAYAAJ" p59-60)と正当化する意見もある。ミュラ自身も「彼らにたどり着くのは困難」(Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat, IV p139)と報告している。
 いずれにせよミュラのウィーンへのこだわりがかなり強かったことは事実のようだし、またそれは明確にナポレオンへの報告の中で言及されていた。ナポレオンが本気でロシア軍を追撃させたいと思っていたのなら、あんな中途半端な言い方ではなく、あるいはベルティエを通じた命令だけではなく、自らの言葉ではっきりとミュラに追撃を命じておくべきだったのかもしれない。少なくとも私の探した中で、それを明確に裏付けるような史料は見当たらなかった。
 
 長くなったのでホラブリュンの休戦は次回。
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