ヴァンデの共和国軍人 その6

6)ジャン=フランソワ・ベリュイエ
 1738年リヨンに生まれる。商人の家の出身だったが53年に志願兵として軍に入る。七年戦争中にいくつかの功績を上げ、62年に中尉に昇進。67年には大尉、68年から69年にかけては独立戦争中のコルシカで戦った。83年には少佐、87年に中佐、革命後の91年には大佐、92年にはmarechal de camp(少将)から中将へと階級を駆け上っている。
 ヴァンデの叛乱勃発にあわせて3月23日にパリから送り出され、ロワール河南岸を担当地域とする軍の指揮官になった。Deniauによると彼は24日にアンジェに到着。将軍や派遣議員と軍議を開き、今後の作戦について「全部隊はヴァンデの果てであるロワール河口に近づくにつれて互いに包囲環を締め、前面の叛乱軍を追い詰めてロワールの海へ追い落とす」(4月1日付の陸軍相への手紙)との方針を固めた。ただベリュイエ自身は、常備軍が少なく国民衛兵主体の共和国軍では勝利は覚束ないと考えていたようだ。
 作戦が始まったのは11日。ベリュイエの主力軍はシェミーエへと前進したが、デルベとカトリノー率いる王党派軍の反撃を受けて後退を強いられる。しかし他の地域で共和国軍が前進したため王党派軍はシェミーエを捨てて後退。ベリュイエは14日にシェミーエへ入り、16日には部隊を派出して他の共和国部隊との連携を図ろうとした。
 ティフォージュへ下がった王党派軍はそこで態勢を立て直し、反撃に出る。共和国軍は各所で撃ち破られ、状況が悪化した中でベリュイエはシェミーエを放棄。26日にはロワール河のポン=ド=セまで後退し、共和国軍の攻勢は失敗に終わった。28日(30日の説もあり)、ベリュイエは事情説明のため国民公会に出頭するよう求められる。
 派遣議員のショーデューなどの弁護によって国民公会での弁明に成功した彼は5月27日に再びヴァンデへやって来る。Sixによると6月1日に再び職権を停止されているのだが、詳細は不明。10日、王党派軍がソーミュールを攻撃した際に重傷を負い、またパリへ引き返すことになった。ベリュイエのヴァンデでの活動はこれで終わる。
 1795年のヴァンデミエールでは「93年の愛国者」大隊の先頭に立ち、国民公会を守って王党派の鎮圧に当たっている。かつてコルシカの兵と戦った彼が、そのコルシカの子供であるブオナパルテと肩を並べて戦ったことになる。その後もずっと軍務を続け、1804年にパリで死去した。

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