大河ドラマでは会津城に入城した山川大蔵が「敵が大砲を据えぬうちに小田山を取り返しやしょう」と話していたが、前にも述べた"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54052646.html"ようにそもそも山川が入城した8月26日は、小田山が陥落し新政府軍の砲撃が始まった日だ。果たしてドラマのような展開はあり得たのだろうか。
改めて小田山陥落について時系列を追ってみよう。まず小田山攻撃の命令が出されたのは、復古記第十三冊"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555"(p176-178)の鍋島直大家記に「朝五時より、天寧寺口、湯本口両所攻口被相達候付」とあるように夜明け前の午前5時頃だろう。実際に出撃したのは慶応出軍戦状によれば「八字頃営を繰出し」とあるので夜明け後だ。
これに対して会津軍が城から出撃してきたのは、新政府軍側の記録によれば昼頃。慶応出軍戦状は「十二字頃、五番隊山の上にて戦争、賊兵城内より追々人数繰出候」とある。そして「七つ時分、賊悉く敗走」「賊兵防守不相叶、小田垣町所々へ火を掛、城内へ敗走いたし、既に日暮にも相及候」(以上慶応出軍戦状)「賊敗走、山を下て逃る、時に日没するを以て追駆を止」(山内豊範家記)とあるように、夕方から日没頃にはこれを撃退した。
小田山の大砲から砲撃を始めた時間については、新政府軍の記録も曖昧である。慶応出軍戦状は敵が敗走した夕方以降に「官軍大窪山の要所を占め、此所へ台場を築き、若松の城を眼下に見おろし、是より昼夜大砲を打込み候」と記しており、いかにも夕方以降に砲撃したように見える。鍋島直大家記も「我アルムストロング並四封度銃を以、終夜本城を射撃致し候」とあり、砲撃が日没以降に行われたかのような書き方をしている。だが山内豊範家記には「薩、肥両兵、城東小田山の要所を占め、大砲を安じ城中を下射す、各藩亦砲を出し斉しく発射す」という一文が会津軍反撃の前に書かれており、会津側が出撃してきた昼以前に砲撃をしていたようにも読める。
会津側の記録はさらに面倒だ。若松記によれば新政府軍は「[新政府軍の増援が]午の刻比、薩藩と談判、我が城東南の隅大窪山辺、攻城の要地なりとて、肥前兵隊四小隊、大砲二門、薩州兵隊と共に大窪山の嶺に巨砲を仕懸け、五重の天守、巍然として高く聳えたるを好的として発下」とあり、昼には砲撃が始まっていたように読める。だがそれに対して守備隊が出撃した時刻は「黎明に出城」。もしかしたらこの若松記では25日昼から砲撃が始まり、翌26日夜明けに出撃を行ったという時系列になっているのかもしれない。新政府軍側の記録と一致しているのは「黄昏引揚下山す」の部分だけだ。
会津戊辰戦史"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921057"はそもそも25日小田山陥落説を取っているので、山川が「敵が大砲を据えぬうちに」などと話すことはあり得ない。むしろ前にも指摘した通り、山川の入城前に敗残兵が「城中の苦しむ所は小田山よりの砲撃にあり」(p572)と言っているくらいで、既に砲撃は始まっていた説だ。また会津戊辰戦史を読んでも、山川がいつ入城したのかについて時間が書かれていない。
ドラマの展開を成立させるには、まず山川が入城した時間をできるだけ早くする必要がある。できれば夜明け直後、それが無理でも午前中くらいにしておくべきだろう。そうすれば昼からの出撃は「小田山を取り返しやしょう」との一言で始まったと強弁できなくもない。もちろん新政府軍が大砲を据えつけた時間は会津側の出撃以前と読める山内豊範家記ではなく、夕方以降になる慶応出軍戦状や鍋島直大家記の記述を採用する。そうなればドラマの展開通りではないか。よかったよかった。
と言いたいところだが残念ながらそうは行かない。なぜなら実際に砲撃が始まったタイミングが、ドラマでは中野竹子の母親が城に戻った時になっているからだ。こちら"
http://www.minyu-net.com/serial/yae/120909/rintosite.html"によれば竹子の母らが城に入ったのは28日。残念ながらどうあがいてもこの時以前に新政府軍が小田山に据えつけた大砲の砲撃は始まっている。フィクションと史実の辻褄を合わせる努力はかくして無駄に終わった。別に無駄だからと言って何の問題もないんだが。
それにしても小田山の大砲がきちんとリコイルで後退していたのは見事。数年前の「坂の上の雲」でも砲撃で大砲が後ろにすっ飛ぶシーンが描かれていたが、今回のドラマではあまり後退している様子がなかったのが気になっていたところ。今回、久しぶりに後ろに退く大砲を見られたのはよかった。
もう一つ、焦点を当てて描かれていたのが29日の長命寺の戦い。というかその出陣前における佐川官兵衛の失態。実はこちらはきちんと史料にあわせたドラマの展開だったようだ。会津戊辰戦史では「総督佐川官兵衛は此の日未明に進軍の手筈なりしが、時機を失し漸く卯の下刻(午前七時)頃に至り諸隊を黒金門前に整」(p578)えたと記している。
復古記に掲載されている若松記はもっと露骨で、「其夜佐川陣将三の丸にて軍令を被申渡、機節手筈定り、未明突撃の手筈の処、陣将賜酒に沈酔して時刻遅れ、朝六つ半時過、本丸鉄門前天守下に著到」(p185)と、明確に酔っ払った佐川が寝過ごしたことを指摘している。いやあ容赦ないですわ若松記さん。会津の英雄的な人の格好悪い場面を全く隠すことなく書いてしまう、そこにシビれるあこがれるぅ。
攻められた新政府軍側の記録はどうだろうか。慶応出軍戦状は「八月廿九日未明より、長州並大垣等の堅たる諏訪山辺へ、賊大勢城より打出及血戦」(p183)と書いているが、未明(夜明け前)と書いているのはこの薩摩藩の史料くらい。実際に攻撃を受けた長州藩の戊己征戦紀略には時間は書かれていないし、同じく攻撃を受けた備前藩の岡山藩記は「廿九日早天」(p183)と曖昧な表記になっているものの、大垣藩の大垣藩記には「廿九日八字」(p183)、同じく大垣藩の東山道戦記は「廿九日巳の刻[午前10時頃]」(p184)、後に増援でやってきた土佐藩の山内豊範家記にも「廿九日朝八時」(p183)とかかれており、夜明け後の攻撃としている記録の方が多い。
会津側にあった旧幕府軍の御料兵の慶応兵謀秘録にも「廿九日朝四つ時[午前10時頃]」(p187)とある。敵味方の記録を見る限り、攻撃開始はおそらく夜明け後だったと見ていいだろう。攻囲されている守備側の出撃策としては拙い展開だが、とはいえ戦場では予定外の状況になるのは珍しくも何ともない。予定外になってしまった理由が格好悪いところはアレだが、この程度のトラブルはいつの時代もどこの場所でもありそうな話だ。むしろ気になるのは、彼らが東側の小田山ではなく西側の長命寺方面に出撃したこと。どんな狙いでそちらへ向かったのか、長命寺の敵を攻撃することでどれだけ敵の攻撃を遅らせられると考えていたのか、そのあたりの発想の方が重要だと思う。
復古記収録の若松記には「議して曰、城中より突衝し、一方の敵を掃攘し、無二の戦をなさん、若し不能克は君仇と共に不戴天、国家の存亡を此一戦に決せん」(p184)と書かれている。佐川も松平容保の前で「死を極めざるは人臣の道にあらず、明暁、此の将長の輩を率い撃出、盟て敵と無二の合戦をなし、一方を掃攘せん」(p185)とほぼ似たようなことを言っており、この勇ましい割に狙いのよく分からない言い分が出撃の理由だったようだ。なぜ長命寺方面なのか、そこに出撃することでどんな効果を見込んでいたのか、残念ながらさっぱり分からない。
「将卒死を決し、威風凛々として西門を出」(p185)た結果、出撃した「千人許」(p187)のうち「死百十人」(p186)という多大な損害を出して戦闘は失敗に終わった。新政府軍側の記録(p182-184)でも「賊を殪すこと百四十余」(戊己征戦紀略)、「討斃し候賊徒、凡百弐十五六人計御座候」(岡山藩記)、「此日討取大抵数百余人」(大垣藩記)、「此日討取の賊は七十人余」(東山道戦記)とあり、会津側が100人前後の被害を出したのは事実のようだ。一方、新政府側の被害は例えば長州藩なら「我兵死七人、傷八人」(戊己征戦紀略)、岡山藩は「死四人、傷七人」(岡山藩記)、大垣藩は「弊藩死五人、傷十人」(大垣藩記)といった数にとどまった。土佐藩が「我死傷不少」と記しているものの、全体で会津軍よりずっと少ない損害だったのはおそらく間違いない。
目的が曖昧、手順の不手際、おまけに損害は味方の方がずっと多いというこの出撃、どう考えても降伏を遅らせるより早める効果しかなかったように思える。やらない方がマシだったんじゃないのか、という点でマインツ対岸のカッセルで戦っていたムニエ将軍の出撃を思わせる。
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