夜襲

 今週の大河ドラマで気になったのがあった。それは夜襲のシーンだ。攻囲されている側の夜襲は昔からよくあることで、ナポレオン戦争でも全く珍しくはなかった。その時代の夜襲は主に敵による攻囲準備の進展を妨げる目的で実施された。分かりやすい例が、破口を作るために攻囲側が建設する砲台の破壊や、そこに据え付けられた大砲に釘を打ち込むといった行為である。
 だが戊辰戦争ではどうだったのかとなると、正直、詳しくない私にはよく分からない。会津軍がどのような狙いで夜襲をしたのかも、明確にはされていない。そもそもまともな籠城の準備すらできていなかった中で行われたこの夜襲は、軍事的にはどのように評価されるべきなんだろうか。小田山が落とされた後に夜襲するという展開なら、その狙いも説明しやすいんだが。
 
 会津戊辰戦争"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582"によれば、攻城戦初日に夜襲が行われたのは事実らしい。「已にして東軍の城に入るもの相議し、潜に城を出で夜暗に乗じ驀然として西軍の諸営を襲う、西軍その不意に驚き周章狼狽、宛かも大河の決するが如く右往左往に潰乱し、同士暗中に相射ち或は退路を失して斬らるるもの多く、土将宮崎小島等之に死す」(p181)との文章がある。夜襲の目的は不明だが「此夜城兵の一部土軍の輜重を襲い、或は病院を蹂躙する等」(同)ともある。
 これと歩調を合わせた記録が復古記第十三冊"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555"のp148にある。山内豊範家記、というから土佐藩の記録だろうが、その中に「賊、晩に乗じて突然襲撃す、板垣、自ら五番隊並砲隊を指揮して、之を抜く、五番隊長宮崎合助、砲隊分長小島慥介等、奮戦して死之、遂に大に之を破る」とか「此の日、賊の別隊、我北滝沢口の輜重を襲う」とか「同夜、賊兵数人、我病院を襲う」といった文章があるのだ。会津戊辰戦争にも「[板垣]退助励声叱咤自ら刀を抜て兵を指揮し、砲二門を以て之を乱射す」という文章があるし、土佐藩の記録を使ったものであることはおそらく確かだろう。東山道戦記(復古記第十三冊、p150)にも「黄昏に至り、賊兵多分襲い来り、大小砲にて打立候間、吾藩よりも発砲して防ぎ候処、賊兵漸く引退き候」との一文がある。
 会津側の記録はどうなっているだろうか。会津戊辰戦史"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921057"には「時に酉の下刻(午後7時)を過ぐ、偶々陰霧濛々として人影を弁ぜず、偶然西兵と遭い追撃す」(p530)という文章がある。前後の文章を見るに夜襲というより日中から継続して戦っていたように読めるのだが、夜間も城下で戦闘が続いていたことは間違いないようだ。
 ドラマで夜襲に参加していた八重自身も回想録を残している。こちら"http://books.google.co.jp/books?id=XHR_uPvIZ-wC"のp45-48に書かれているものがそうだが、これもまた興味深い。曰く「そっと仕度をして大小を差し、ゲベール銃を携へ、夜襲隊と共に正面から出ました」。ゲベールである。後装7連発のスペンサー銃じゃなく、マズルローダー、フリントロック、スムーズボアの銃だ。本人が「私の命中の程は判りませんが、余程狙撃をしました」と語っているので撃ちまくったのは間違いないんだろうが、ドラマのような連発銃だったかどうかはちと分からない。こちら"http://www.d9.dion.ne.jp/~rekishi/08syouwa/yae.htm"を見ると、八重自身が両方の銃に言及しているそうで、正直どこまで信じていいのか良く分からない。
 
 ちなみにドラマでは恭順を主張している西郷頼母だが、史実はかなり違っていた模様。会津戊辰戦史によると「既にして同僚中或は和を唱うる者あり、頼母之に謂って曰く、卿等前に余が和議を排しながら今日に至って和を説くは何ぞや、武門の恥辱は城下の盟より大なるはなし、唯城を枕にし一死君恩に報ゆるあるのみと」(p570-571)言っていたとか、「頼母若松に帰還入城後諸士に対し慷慨悲憤の口吻を以て今日此の窮地に陥るは家老等余の献策を容れざるの致す所なりと、之を痛撃讒謗したる」(p571)といった具合で、ドラマの頼母のような「悲劇の忠臣」という殊勝さは感じられない。
 というかこちらのblog"http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20130708/1373290967"にもあるように「頼母うぜえええええええ」という感想しか思い浮かばない。会津戊辰戦史に紹介されている話が事実なら、籠城時の頼母はほとんど「キレる中年」状態であり、そうでなくても忙しいのに彼の愚痴やら暴言やらに付き合わされる幹部連中が頼母を追い出そうとした気持ちも分からんでもない。でもドラマでこのまま再現するのは流石に難しいだろうな。
 頼母の名誉のために言及しておくなら、主力が出払っている城下に新政府軍が殺到した23日、彼は急遽城に入ってうまく指揮を執ったようだ。会津戊辰戦史によれば「此の危急存亡の秋に当り余等固より微力を尽くさざるべからず、諸子奮励努力せよ」と部下を激励。「此の時建議する者頗る多し、頼母平生と異なり虚心坦懐を以て人言を容れ、全力を傾注して指揮宜しきを得たり、衆心大に安んず」(p528)と語られている。逆に言えば「平生」は他人の助言に耳を貸さなかったと思われていたわけで、恭順派の家老がこんな人徳のない人物であったのが会津最大の悲劇だったのかもしれない。
 長くなったので彼岸獅子は次に。
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