ラインへの行軍・6

 金の話、続き。
 

 その結果はミオー=ド=メリトが述べている(61)。
「彼が首都を去るか去らないかのうちに、[フランス]銀行が流通させている紙幣の交換に関する警告が明らかになった。正金の不足があり、交換比率を下げなければならず、そして葡萄月3日(9月25日)、皇帝出発の翌日、銀行は300000フランの量までの現金しか支払えず、自ら姿を現した債権者それぞれについて1000フランの紙幣1枚しか受け付けなかった。不満は憂慮すべきものだった。銀行、あるいは少なくとも主要株主は、正金を交換し大量に海外へ持ち出したことで糾弾された。他の者は金の不足を政府と、彼らによって銀行に課せられた融資に責任を負わせた。だが最後の非難は極めて根拠のないものだった。我々政府評議会は、そのような手続きは決して考えられたことはなく、そして害悪は銀行総裁の貪欲で無分別な投機に着せられるべきであることを納得させられる。
 公共財政の困難は皇帝不在のほぼ全期間にわたって続いた。いくつかの会議がそれに伴う結果を軽減するための手段を工夫すべく開かれ、そして多少なりとも害悪を減らすために採用された様々な対応が布告された。
 この危機が続いていた全期間を通じ、国庫は極めて緊張した状態にあり、財務大臣であったバルベ=マルボワ氏が承認した異常な報奨金によって困難はさらに増した。兵站部に補給していたウヴラール及びファンレルベルヘの会社を差し迫った破綻から救うため、彼は彼らに国庫にあった合計85000000にのぼる収入役の債券全てを彼らに委ね、契約商人たちはそれを[フランス]銀行に預けた。この預金に対し銀行は紙幣の発行を増やし、そしてその行動は一覧払いを不可能にした原因の一部であった。
 投機家へのこれほどの好待遇において、バルベ=マルボワ氏は間違いなく非難されるような動機に影響されてはいなかったが、そもそも彼は何の権限もなくそれを承認したことで、そして2つ目にジョセフ公(元老院議長)に何をしたかを知らせなかった点で間違っていた。公はかくして害悪の原因について何の知識もないまま、その改善を模索することを余儀なくされた」
 ジョセフ公が国庫に対して明白な権限を持っておらず、そしてバルベ=マルボワが厳密に言えば彼に対して何の記録も提出することを法的に強いられないのは事実だが、メリトがさらに述べている(62)ように「この取引における最も奇妙な部分は、それが皇帝の知るところとなるまでかなりの時間隠されていた」点にある。だがこの不始末は戦役の最後まで続き、そしてクリスマスの日、ナポレオンはジョセフに封をしていない手紙を送り、彼はそれを読んでそれから封をしてバルベ=マルボワへ送った。そこには「連合国はもはや私の大臣より役立つ支持者ではない。(中略)実を言うと、この男は私を裏切ったと思う」と書かれていた(63)。ここがクライマックスだったが、8月でも既に戦役全体を通じて管理の失敗が支配する兆候はあまりにも疑いなく示されていたので、あらゆる時期を通じナポレオンがやったよりもよく国庫運営を非難することは不可能だっただろう。彼はブローニュを去る前に「財政システムに関しては、これ以上悪くなりようがない」(64)と宣言していた。モリアンによれば皇帝は事実を全く隠そうとせず、「勝利のみを見てそこに改善法を探していた」(65)。実際、欠陥がある補給と財政の仕組みと、士官及び兵が耐えることを強いられた不必要な苦難、そして彼らの補給が分配され給与が支払われる際の不規則さの結果としてさらされた欠乏とをこの戦争で正すには、途絶えることのない勝利によるあらゆる称賛と敬意が必要であった。
 
(61) Miot de Melito, Mémoires, II, pp. 142-143
(62) 同上、pp. 143-144
(63) ナポレオンからジョセフへ、シェーンブリュン、12月25日。Confidential Correspondence of Napleon with Joseph Bonaparte、No. 105, Vol. I, p. 76
(64) ナポレオンからバルベ=マルボワへ、9月2日。
(65) Mémoires, p. 407
 

 ナポレオン戦争が採算という点でどうだったかについては、以前それに関連する論文を紹介したことがある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52912644.html"。勝利を重ねていた時点で既に大幅赤字だったというのが結論だが、この1805年時点ではまだ勝利の前、2年に及ぶ戦争準備で金だけがかかっていた時期である。ナポレオン体制が財政的に綱渡りであったことが、この戦役の分析からも分かる。
 次回は総括。
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