次は最も重要な問題である「金」について。
だが乗り越えなければならない全ての困難の中で最大だったのは使える資金の欠如だった。皇帝のあらゆる努力にもかかわらず、軍の財政は彼らが実際にそうであったより悪く運営されることはほとんどあり得ず、それが数え切れないほどの不平を生み出したのは実際にほとんど不思議ではなかった。靴、マント、食糧、馬匹、防御施設、車両、軍用オーブン、砲兵及び工兵用補給などへの支払い用の適切な資金は正確な時間に供給されず、従って前線の士官たちは数え切れないほどの悩みに支配され、これほど限られた時間の間に成し遂げることを期待された巨大な準備のさなかに腹立たしいほどの頻度で妨害されることになった。ストラスブールに着くとすぐミュラは彼がパリに送った急使に自分の懐から支払うことを余儀なくされ(48)、そして5日後には第5軍管区の主計官が引き出そうと試みた資金を確保することができなかったため、必要な飼料を手に入れられなかったと報告した(49)。その間、ソンジは会計処理係が金庫の全現金を使い果たし、金の代わりに小切手での支払いに陥ったと不満を述べた(50)。18日に監督官は資金不足が1ダースのオーブンをビスケット焼成に使うのを妨げていると宣言し(51)、そして22日にはミュラが最初の供給分を完済しない限り上ライン県からこれ以上の飼料を得るのは不可能だと指摘した(52)。
そして士官と兵への支払いも遅れていた。ブローニュを出発する前においてすらナポレオンは彼の所有である600000フランを軍の資金に転用するのを許可することを余儀なくされ、そしてこの量は極めて不十分だったため、9月2日までの支払いを確実にするため「特別の作戦用の資金」に頼らざるを得なくなった(53)。財務大臣のバルベ=マルボワは彼の命令を超え、皇帝が自由に使うため設置された基金を軍の主計総監に送ることを許し、さらに減債基金から4000000フランを軍の支払いに転用した――この手続きはナポレオンからの厳しい批判を浴び、皇帝はそれによって準備作業が「麻痺し15日間遅れた」、なぜなら追加の経費と砲兵用馬匹、騎兵の補充馬、マント及び靴のため4200000フランがすぐに必要だったからだと不満を述べた(54)。他の資金源の欠乏により、皇帝は減債基金から受け取り軍の支払いに充当した量については許可したものの、9月7日以前の補給のため、またさもなくば不可避である中立国の略奪と荒廃を避けるべく同様に10月23日までの兵士への支払いに必要な金のために自身が4000000フランを持たなければならないと主張した(55)。9月6日と17日の布告は戦争費用に30000000フランを提供したが、これらの金全てを望まれているほど素早く分配するのは不可能であった。ただ10月23日までの軍の支払いは6日の布告(56)に従って9月27日には履行されると期待され、実際にソンジは砲兵のために500000フラン、馬具のために288100フランを受け取った(57)。にもかかわらず軍の支払いは彼らがラインを渡った時も、それから数日後までも滞っていた(58)ため、実際に何が起きるかを予想していたナポレオンが、もし財務省がフランス銀行の紙幣を割り引いて市中に供給することを続けるなら、そしてもし契約商人との取引関係を任されている財務省の事務長ロジェ、ファンレルベルヘ社の代表であるデプレ、及び「商人連合」の名前の下で結びついているウヴラールが、彼の対策を失敗させるつもりで「確かに正しい道を進んでいる」のなら、何にも頼れなくなると不満を述べたのも決して驚くべきことではなかった。実際、財政状態は1800年より悪いと彼は宣言した(59)が、相当量の非難がバルベ=マルボワの執務室に正しく浴びせられたとしても、本当の要因は1805年より先行していた。減債基金の事務局長であったモリアンは以下のように述べている(60)。
「国庫は2年間の破滅的な準備の結果、まさに使い果たされていた。あまりに枯渇していたためナポレオンは彼の大陸軍のために数百万以上のものを国庫から引き出すことができず、大半は彼の個人的たくわえから持ってきた。全てが順調に進んでいると主張し、より必要になるのにあわせてより厳格になっていった政府の補給に関する契約商人は、商品の受け渡しを中止すると脅してきた。10万人の軍に必要な食糧、車両及び砲兵を、ピカルディーの海岸からバイエルンの中心までの跳躍に追随させるためには、主要な供給業者を助けることが必須となり、そして他の手段の欠如のため、我々は彼らに支払いとして10000000[フラン]の公有地を与えるまでに陥った。その年の支払いについて収入役が裏書きした債務について交渉することで、国庫は既に1806年の歳入の一部まで担保にしていた。[フランス]銀行は紙幣の支払い要求に悩まされていた。なぜなら彼らは、供給業者の名の下に彼らの欺瞞的な信用と、同様に自らの署名で貸し付け共謀した手形で溢れた新しい家々に関しても国庫に売る人々に都合のよい割引をするほど、あまりに気前がよかったからだ。かくして財政的困窮は公的部門から私的問題にまで広がり、そして迫り来る深刻な危機の兆候は既にナポレオンがドイツへと旅立つ前に明白になっていた」
(48) ミュラからベルティエへ、9月10日。
(49) ミュラから皇帝へ、9月15日。
(50) ソンジからベルティエへ、9月15日午後7時。またナポレオンからベルティエ、9月18日真夜中頃。ナポレオン書簡集、No. 9239
(51) ペティエからベルティエへ、9月18日。
(52) ミュラから皇帝へ、9月22日。
(53) ナポレオンからバルベ=マルボワへ、8月28日と30日。ナポレオン書簡集、No. 9146と9162
(54) ナポレオンからバルベ=マルボワへ、8月30日と31日。同上、No. 9162と9168
(55) ナポレオンからバルベ=マルボワへ、9月2日と8月31日。同上、No. 9175と9168
(56) ミュラから皇帝へ、9月21日。
(57) ソンジからベルティエへ、9月22日。
(58) 日々命令、9月27日と28日。
(59) ナポレオンからバルベ=マルボワへ、8月30日。
(60) Mémoires, p. 407
長いので以下次回。
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