ラインへの行軍・3

 続いては「腹が減っては戦はできぬ」と言われるように、ある意味最も重要な食糧状況。
 

 必需品もまたこれだけの軍に対しては量が明白に不足し、不適切に管理されしばしば質も劣っていた。ファンレベルヘ及びドラノワという業者が軍のための食糧と秣の提供の義務を負っていた(21)が、軍の契約商人がいつもそうであるように、彼らの運営は粗悪なサービスしか生み出さず、かなりの不満と多くの単なる不平を引き起こし、両業者の破産に至った。ブライトという業者による輸送手段の供給は9月29日までストラスブールに到着せず、結果としてずっと後になるまで軍に追いつかなかった。この業者は求められた数の馬匹を手に入れたが、車両の提供には政府が責任を負っており、そして皇帝が数多くの車両をサンピニーで製造するよう命じ(22)、そして心配そうにそれがいつラインに到着するか聞いた(23)にも関わらず、この作業は大幅に遅れ、9月18日になっても監督官の報告によれば必要な車両の4分の1のみが準備できており、残りは数ヶ月しないと完成しそうになかった。いくつかの車両はサンピニーで作られたものに倣ってストラスブールで製造された(24)が、そうやって手に入ったものの数はあまりに少なく、おまけに事態をさらに悪化させたのは、「沿岸軍」に所属していた車両がストラスブールに直接向かうことを許される代わりにサンピニーに向かってそこで止まった(25)ため、ライン沿岸での補給業務は9月2日の布告(26)に則って徴発された1000台の車両を使って行われなければならなくなった。
 9月20日に出された命令によれば、軍は4日分のパンと同じ期間分のビスケットの補給を受けることになっていた。後者は非常時のために手を触れずにおき、パンは消費されるとできるだけ早く補充して、兵たちが常に8日分の食糧を持つようにした(27)。必要な量のビスケットを確実に作るため、ナポレオンはベルナドットに対し行軍を始める前にゲッティンゲンで100000食の糧食を手に入れるよう命じ(28)、さらにバイエルン選帝侯にヴュルツブルクで500000食、ウルムで500000食を製造するよう要請した(29)。皇帝の注意深い準備にもかかわらずビスケットの大半は軍がラインを渡河したときには供給されなかった。200000食の糧食は29日までマインツに補給されず、従って第2軍団は住民の家に宿泊せざるを得ず、そして倉庫が用意されずヴュルツブルクへ送られた代理人が全く仕入れもパンやビスケットの焼成もしなかったため、ヴュルツブルクへの行軍中に徴発をしなければならなかった(30)。一方オットーの報告によれば地元のパン職人はビスケットとは何かをほとんど知らず、小麦粉はフランスよりもはるかに高く、オーストリアの公使が彼らを監視していたため多大な秘密が必要となり、ビスケットをフランスで製造しマインを経てヴュルツブルクへ輸送した方が望ましかった(31)。
 ストラスブールの状況も同様に悪かった。18日の監督官到着まで、代理人シャトレンは必需品の組織化とビスケットの準備があまりに手緩かったため、皇帝側の怒りのコメントを引き出した(32)。ペティエは遅れた状態を修正しようと絶え間なく努力した。彼は迅速に職人を徴用し、個人業者のパン店でパンを製造し、14の軍用オーブンを利用し――他の12個については修繕費用がなかったため使えなかったが――リールから200000食、ソワソンとランドルシーから100000食の糧食を運び、9月29日には1200000食のビスケットを準備すると約束した(33)。ミュラとランヌがラインを渡河した翌日、そして皇帝が到着したまさに当日――9月26日――までに製造されたビスケットの総量――それぞれ18オンス――はたった180000食だけで、日々15000より多くは供給できなかった。ユナングとランダウはそれぞれ20000食と30000食の糧食をそれぞれ提供したが、いずれの1日当たりは5000食以上は出せず、ウィサンブールとアグノーにオーブンが設置されたものの、それらは28日まで実際に稼動を始めず、1日6000食が限度だった。ペティエがリールから送った200000食のうち120000食のみが10月14日にストラスブールに到着すると期待されており、従って実際に9月26日に兵たちに分配する準備ができていたのはたった230000食だけ(34)――皇帝が求めた500000食に比べ270000食の不足であった。輸送手段の欠乏のため業者のファンレルベルヘはメスとナンシーで集めた補給を運ぶことができず、結果として21日、同社の代理人は彼が頼っている小麦の徴発が欠乏を埋める唯一の手段であると示唆し(35)、そして翌日、スールト元帥は、第4軍団を補給するための追加的対策が採られない限り、第4師団(スーシェ)が到着する時に全てのパンを消費してしまうと不満を述べた(36)。住民が利益を期待して売ろうと集めた食糧補給は、ストラスブールの兵站長に取り立てられ、補給業者が定めた恣意的な価格を強制的に受け入れさせられることで住民を落胆させ(37)、また飼料があまりにも不足したため、22日においてすら、ペティエは緊急に必要なものを徴発という手段で補給するよう上ライン県知事に対して要請した(38)。
 
(21) ベルティエから様々な元帥へ、8月27日。
(22) ナポレオンからドジャンへ、8月28日。
(23) 例えばナポレオンからミュラへ、9月18日。
(24) ミュラから皇帝へ、9月21日。
(25) ナポレオンからドジャンへ、9月26日。ナポレオン書簡集、No. 9267
(26) ペティエからベルティエへ、9月18日。
(27) 日々命令、9月26日。
(28) ナポレオンからベルティエへ、そしてベルティエからベルナドットへ、8月23日。
(29) ナポレオンからバイエルン選帝侯へ、8月25日。ナポレオン書簡集、No. 9134
(30) マルモンからベルティエへ、9月22日及び30日。
(31) オットーからベルティエへ、9月21日。
(32) ナポレオンからドジャン、9月10日。ナポレオン書簡集、No. 9197
(33) ペティエからベルティエへ、9月18日。
(34) ドルベックの報告、9月26日。
(35) スールトからミュラへ、9月21日。
(36) スールトからミュラへ、9月22日。
(37) サヴァリーの報告、日付なし。
(38) ミュラからナポレオンへ、9月22日。
 

 こちらも運ぶ手段以前に、必要な量を生産する時点で無理ゲーだったことが判明する。大陸軍が空きっ腹を抱えて行軍するシーンは漫画でも散々描かれているが、その実態はこの1805年戦役の時も変わらなかったわけだ。「補給戦」ではなく「生産戦」という題名で本でも書いた方がいいくらいである。
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