前回の続き。今回は人事も含めた人材の準備状況について。
士官、特に参謀の欠乏も、準備の促進を妨げるもう1つの要因であり、一部は16日の皇帝の命令により正されたものの、多くの欠員がなお存在しており、少なからぬ問題を招いた。ストラスブールに到着した翌日、皇帝不在の間に指揮を執っていたミュラ公は、彼の軍団に兵站長、工兵指揮官及び砲兵指揮官がおらず、これら重要な空席がすぐ埋められるよう2回に渡って要請することを強いられた(14)。さらにライン沿いの武装拠点の守備隊には砲手が不足しており(15)、予備騎兵とウディノの擲弾兵が渡河する直前の日になっても、彼らの砲兵中隊のいくつかはまだ到着しておらず、予備砲廠を指揮する将軍も姿を現していなかった(16)。21日になってもスールト元帥はソンジ将軍に対し、自らに割り当てられた砲兵の組織と構成を知りたいと訴え、そして彼が「1人として砲兵参謀士官を持たず」、新しい砲兵指揮官と砲廠指揮官の名前すら知らないと不満を述べていた(17)。フランス軍の各軍団がラインを渡る前に――そして後になってもなお――置かれていた状態については、砲兵大尉が見事に言い表している(18)。
「革命祝日4日目(9月21日)、我々はメスで皇帝が我々の将軍マコールを要塞化されたリールの町の指揮官に任命し、そしてラリボワシエール将軍が彼に代わって軍団に来ることを知った。ストラスブールに行進する代わりに、我々はランダウへ向かった。私はそれまでの旅程全てで乗っていたマコール将軍の馬をセナルモン大佐に譲り渡した(19)。この時2万5000人以上の軍団の砲兵指揮官である将軍は1頭しか馬を持たず、その部下の大尉は徒歩で移動することになった。私は戦場に入ろうとする瞬間だったにも関わらずライン河畔で馬を下りた。ただ、私は輸送部隊の中に小さな馬を見つけ、そして数日後には砲手から盗品である素晴らしい乗馬を60フランで購入した。
シュパイアーで(葡萄月6日、9月28日)私はラリボワシエール将軍と合流した。彼には副官も、参謀長も、士官たちもいなかった。陛下によって砲廠輸送のため徴用されたロレーヌ、アルザス及びコンテの御者と馬匹はそれ以上留めておけず、家に帰ってしまった。これは我々にとって多大な損失であり、戦役を通じて影響した。
葡萄月9日(10月1日)、ハイルブロンで砲廠指揮官のデュケノワ大佐と(軍団砲兵)参謀長のドマルセが到着した...」
第4軍団のがラインを渡った数日後まで任務を始められなかったこれらの士官は、当時の大陸軍の組織化が欠如していたこと、及びこうした不運な状態を避けるためどの欠員が存在するか確認し適切なときにそれを埋めることにベルティエ元帥が失敗したのを示すもう1つの実例に過ぎない。だが第4軍団の状態が悪かったといっても、それは予備騎兵も全く同じであり、というのも彼らがラインを渡河した日にミュラ公は皇帝に以下のように書き記すことを余儀なくされていた。
「陛下、我々はおよそ組織化されていません。軍(団)にはほとんど1人の幕僚もおらず、将軍の車両ははるか後方にいます。医療用車両はなく、輜重大隊はまだ移動中です。我々の大砲は徴用された馬匹に牽引されています(20)」
(14) ミュラからベルティエへ、9月10日、14日及び15日。
(15) ソンジからベルティエへ、9月15日。スールト元帥からソンジへ、9月21日。
(16) ソンジからミュラへ、9月24日。
(17) スールトからソンジへ、9月21日。
(18) Pion des Loches, pp 139-140
(19) 後のスペイン方面軍砲兵指揮官――ナポレオニック時代の偉大な砲兵の1人。
(20) ミュラからナポレオンへ、日付はないが間違いなく9月25日。
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