ヴァンデの共和国軍人 その5

5)エマニュエル、グルーシー侯
 グルーシー"http://en.wikipedia.org/wiki/Grouchy"は1766年パリに生まれる。ストラスブールの砲兵学校を出て81年から軍務に就き、84年には騎兵部隊の大尉となった。生まれながらの貴族だったこともあり、革命前には中佐まで昇進している。87年に一時軍を離れる。革命を支持した彼は中佐として軍に復帰し、中央軍やアルプス方面軍で勤務する。92年9月にはmarechal de camp(少将)に昇進。
 彼がヴァンデにやって来たのは1793年3月1日(Phippsの"The Armies of the First French Republic Volume III"による)。最初にレンヌで、次いでル=アーヴルで沿岸警備を担当した後、5月15日にカンクローの下、ブレスト沿岸軍に配属された。彼は6月に行われたナント攻撃の際にシャレットの部隊と戦ったという。また、共和国軍の今後の作戦について、三方から集中的に前進する案(カンクローやビロンが支持していた)の方が望ましいと考えていたようだ。
 8月、グルーシーは約4000人の部隊を率いてアンスニに展開していた。31日から9月1日にかけてナント近くにあるソルニエールの陣営で王党派軍の攻撃を撃退する(Phippsによると撃退したのは9月5日で、その際にグルーシーは負傷したという)。マインツ部隊が到着した後は彼らと伴に戦ったと見られるが、9月30日(Phippsによると10月7日)に元貴族を軍から排除する布告によって職務停止。10月8日に軍を去り、いったんヴァンデの戦場から姿を消す。
 1794年に軍務に復帰した彼は再び西方軍に所属。95年には将軍となり、オッシュの下で活躍する。革命戦争期には99年のノヴィの戦い、1800年のホーエンリンデンの戦いなどに参加。帝政下では主に騎兵部隊の指揮官を務め、1815年の百日天下の際に帝国元帥に就任した。ナポレオンの没落後は一時海外へ亡命を強いられたが後に帰国。七月革命後の1831年に改めて元帥の地位に復帰し、1847年に死去した。
 ナポレオンの元帥たちの中でヴァンデを含めた西方軍の勤務が最も長かったのはグルーシーだった。逆に言えば、他のヴァンデで戦った将軍たちの大半は元帥にならなかった。ヴァンデの共和国側将軍たちが無名なのは、これも一因かもしれない。

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