ヴァンデの戦いに関連し、9月2日に共和国軍が開いた会議に関して以前に少し紹介したことがある"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/45970192.html"。マインツ部隊がソミュールとナントのどちらを経由して攻撃に出るべきかを論じたも会議で、参加していないクレベールの回想録より参加していたシューデューの回想録の方が当てになるという結論だった。ただしシューデューの話も会議の後に公安委員会へ送られた報告と比較すると違っている部分がある。
大きな違いは、ソミュール経由とナント経由で意見が分かれた後で、最終的にどう決定したのかだ。シューデューは決定方法について以下のように述べている。
「10人の将軍のうち7人の[ソミュール経由の]意見が支配的だと私には思えた。だがそうはならず、フィリポー[派遣議員]がソミュールの軍に対して掲げた阻止策は、議長が意見を決める権利を授けられているというものだった。これは疑問を疑問によって決めることであった。なぜなら1回目に既にナントへの行軍に投票していた議長が2度目も同じことをするのは明白だったからだ。
かくしてこれまでヴァンデに足を踏み入れたことのないコルマーの弁護士[ルーベル]の意見が、この大きな問題を二重投票によって断ち切り、同じく[ヴァンデを]よく知らないマンのもう1人の弁護士[フィリポー]による計画が、戦闘行為の開始以来この地で戦ってきた7人の将軍の意見より好まれた」
Notes sur la guerre de Vendée"
http://books.google.co.jp/books?id=G_oaAAAAYAAJ" p65
意見が分かれた結果、議長の投票で決まったとシューデューは述べている。そしてこの意見はヴァンデ内戦に関する最も早い歴史書を1806年に記したAlphonse de Beauchampも採用している。
「11人の委員のうち7人がフィリポーの計画[ナント経由]に投票し、3人が反対した。双方が激情と陰謀に押し流されているのを見たブールボットは投票を拒否した。11人の将軍のうち、カンクロー、オーベール=デュバイエそしてサーブル=ドロンヌの師団を指揮するミーコウスキーはフィリポーの列に、7人はシューデューの意見に加わった。11人目は決断しなかった。投票の完全な分断は結論をもたらさず、議長は公安委員会の布告を守るべきだと決断し、ナントから攻撃することになった。激しい議論があり、どちらも苦い思いをしていた。サンテールは計画を提示したが拒絶された。ムヌー将軍はカンクロー将軍の計画と戦った。決断は戦争の原則に従ったわけでも、敵の地理的な位置に従ったわけでもなかった。実際は誰もロシニョールに命令されたくなかっただけだった」
Histoire de la guerre de la Vendée et des Chouans, Tome Premier."
http://books.google.co.jp/books?id=O7lBAAAAcAAJ" p300-301
シューデューの回想録は19世紀末に出ているので、Beauchampはその本を見て書いたわけではないだろう。シューデューから直接聞いたのか、あるいは他の情報源から話を仕入れたのかもしれない。問題は、彼らの話が会議に関する公式な報告と矛盾している点にある。Archives parlementaires de 1787 à 1860, Première Série, Tome LXXIIIに載っている報告には以下のようにある。
「それ[投票]によれば、10票がナント経由の行軍に、10票がソミュール経由に投じられ、どちらも多数とならなかった。
そして議論が再開し、会議は長い討論の後に、将軍たちが彼らの間で互いに相談し本日夕方に会議に提案する計画を定めることを承認した。会合は4時に閉じ、夜8時まで延期された。
同日、9月2日、夜8時、会議は再開され、将軍の1人が、本日会議が定めた命令に従って彼らは集まり、そしてマインツ軍はナントへ行軍するとの意見で合意し、また実行手段について連携すべく翌朝に集まることでも合意したと宣言した。メンバーの1人が将軍たちの意見の結論を文章にまとめるよう要望した。この提案を議題にするよう主張がなされ、上記の報告に従って議長が会議に将軍たちの意見を採用するかどうかを相談し、以下のように投票がなされた。市民ルーベル、メルラン、リシャール、テュロー、キャヴェニャック、メオーユ、フィリポー、リュエル、カンクロー、ムヌー、サンテール、オーベール=デュバイエ、ミーコウスキー及びデンバレールが採用に投票し、市民シューデュー、フェオー及びシャルボが反対した」
Archives parlementaires de 1787 à 1860, Première Série, Tome LXXIII"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k49589x" p678-679
この報告の後には参加者の署名があり、その中にはシューデューの署名も存在する。報告書の内容を信じるのなら、票が分かれた後に判断を下したのは議長ではなく、まず将軍たちだけで再度議論を行い、彼らの提案を受けてもう1度、会議で投票がなされたことになる。シューデューはどうやら自分で署名した報告書の内容を忘却してしまったようだ。
シューデューにとって残念なことに、歴史家Beauchampは本文でシューデューの見解を採用していながら巻末資料ではこの報告書をそのまま引用している(Histoire de la guerre de la Vendée et des Chouans, Tome Premier. p427-428)。Beauchampがこの報告書を信じていないのなら巻末資料に入れる必要はなかったと思うが、彼がどんな考えで両方の説を紹介しているのかは不明だ。
もっと残念なのは、歴史家ではなく他の当事者たちもシューデューの話を支持していない点にある。彼と同様にソミュール経由の侵攻作戦を主張していたロシニョールは、自身の回想録で会議の経過について「会合の再開とともに私は[軍の分裂を避けるという名目で]投票を放棄した。彼ら[派遣議員たち]が私に抱いてくれる感情を当てにしていたのだが、それは失敗であり、軍はナントを経て行軍することが決まった」(La vie veritable du citoyen Jean Rossignol"
http://archive.org/details/LaVieVritableDuCitoyenJeanRossignol" p229)としか書いていない。
ロシニョールと親しかったロンサンも、霧月23日(11月13日)付の手紙で「ソミュールで9月2日に開かれた戦争会議でマインツ軍のモルターニュへの行軍はナント経由だと布告された」(Rapport à la Convention Nationale sur la suspension arbitraire du général Rossignol"
http://books.google.co.jp/books?id=ugE4_FRymeUC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s" p26)としか記していない。ロシニョール同様、議長に関する言及は全くないのだ。
モモロもヴァンデ内戦の翌年に書いた報告の中でこの会議に言及している。そこでは派遣議員たちが「ソミュールを経てモルターニュを攻撃することを欲していた将軍たちの見解を踏み潰した」(Rapport sur les évènemens de la guerre de la Vendée et le plan d'opression"
http://books.google.co.jp/books?id=cSb-H3LacwwC" p13)という言い回しをしているものの、やはり議長の判断で決めたとは書かれていない。
会議の時に本人はいなかったものの、派遣議員をしていた兄弟は参加していたテュロー将軍もまた、ヴァンデに関する回想録を早い時期に出版している。そこでは「ロシニョールの寛大さがカンクローの計画[ナント経由]に好ましい方へとバランスを傾けた。なぜならどちらの方角から攻撃すべきかという問題で意見は分かれていたからだ。かくして主要攻撃が西方で行われることが決まり、マインツ守備隊はナントへ向かった」(Mémoires pour servir à l'histoire de la guerre de la Vendée"
http://books.google.co.jp/books?id=wDLYNZY5CEUC" p133)と記されている。
要するにシューデューの意見を裏付ける他の一次史料は、少なくとも私が探した限りでは見つからなかった。一方、報告書の内容をそのままなぞったものも実は見つけられなかったんだが、同じ一次史料でもこちらはシューデューのものより古く、しかも複数の参加者の署名入りという訳で内容についても信頼度が高いと考えられる。現状ではナント経由の決断は報告書にあるように「将軍たちの相談を経て提案され14対3で可決した」と見るべきだろう。
Le conventionnel Philippeaux"
http://archive.org/details/leconventionnel00mautgoog"の著者Paul Mautouchetが述べているように、シューデューの回想録は「誤解または不誠実だ。ナント経由の攻撃計画が勝利したのは、将軍たちがそれを受け入れたからである」。
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