唐代に生まれ、北宋までは中国で国家機密として守られていた火薬と火器は、やがて金や元との戦争を通じてまず北方騎馬民族に知られ、そこからユーラシア各地へと広まっていく。欧州に最初に火薬の存在が伝わったのは1200年代半ばのルブルクの伝道がきっかけ。ルブルクから情報を得たロジャー・ベーコンは欧州で最初に火薬に言及した書物("
http://books.google.co.jp/books?id=1PxJAAAAcAAJ"など)を残した人物となったが、これはあくまで特殊事例であり、基本的に火薬や火器に関する情報はイスラム世界を経て欧州に伝わったようだ。
イスラム世界が火器を知ったのはモンゴルの征服がきっかけ。1250年代の後だとポンティングは指摘している(p81)。1260年代に対南宋戦のため中国へ連れてこられたムスリムの軍事顧問、アラ・アル=ディンとイスマーイールは1280年までに中東へ戻り、火器に関する正確な知識を伝えたようだ。欧州へ伝えたのは1260年代に中国へ旅行したマテオ・ポーロらか、あるいは1280年からタブリーズに滞在したルチェット・デ・レッコ、さもなくば1280年頃にモンゴルの砲手奇渥温が西方へ伝えたのだという(p80-81)。モンゴルの征服という特殊要因があったとはいえ、半世紀もせずにユーラシアの西まで伝わったという事実は凄いもんだ。
イスラム世界では1240年頃にイブン・アル=バイタール"
http://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Baitar"が著作の中で硝石について触れたそうだが、実際に戦争で使うようになったのはイブン・ハルドゥーンによれば1274年のシジルマサ包囲戦が最初の言及。ただしそこで出てくるのは火炎放射器であり、他にも爆弾やロケットの話が13世紀終盤にいくつか出てくるものの「真の大砲」がイスラム世界で使われるようになったのは次の世紀だったようだ(p84-87)。
イスラム世界では2つの火薬帝国が生まれた。オスマン帝国とムガール帝国だ。オスマンの歴史は有名だし、コンスタンティノープル陥落に火器が大きな役割を果たしたのはよく知られている。インドではイスラム世界の少し前、1250年代には爆竹と花火が使われたそうだが、他の地域ほど火薬兵器が広まらなかったため、火器を使いこなすムガールに征服された。ただロケットだけは1500年以前からインドで広く使われており、後に英国のコングリーヴがナポレオン戦争期に本格的にロケットを導入したきっかけはインドでの戦争が理由だという(p108-110)。
欧州では火薬の製法に関する発展が大きな影響をもたらした。材料をすりつぶし混ぜ合わせるだけだった中国由来の「サーペンタイン」ではなく、仕上げの際に水を加えてペースト状にしたうえでざるで裏ごしする「粒状化」の技法は火薬の威力を増し、大砲だけでなく手持ち型の火器の発展ももたらした(p150-152)。大砲も小型化し、戦争で多様な使い方がなされるようになった。
さてでは中国で生まれた火器が、最終的にはなぜ欧州で大発展を遂げたのだろうか。ポンティングは中国が1360年代以降に平和な時代に入って開発が止まったのに対し、欧州はずっと戦乱が続いていたことが理由だと見ている(p184)。この戦争は単に技術開発を進めただけでなく、硝石の生産といった困難な問題を解決するため国家権力を増強する方向にも働いた。多くの国で勝手に個人の所有地に入って硝石を集める権限を国が求め、また戦争に必要な資金を集めるために中央集権も強化された。一方、火薬の登場によって城の防御力が失われた結果、地方の居城に立てこもっていたローカルな権力はその力を失っていった。財政=軍事国家をもたらした大きな原動力が火薬だった、というわけだ。
ポンティングは軍事技術面では19世紀になっても中国は決して欧州に一方的にやられていたわけではないと見ている。欧州近代兵器は持っていなかったものの、昔ながらの武器はそれなりに効果的だったし、防御施設は火器に対してかなりの抵抗した。もちろん全く同格とまでは行かなかったようだが、例えばアヘン戦争でも火器の「祖国」としての矜持は見せたようだ(p242-244)。それでも敗戦に追い込まれたのは事実。技術は別に戦争だけを理由に発展するわけではないだろうが、武器である火器技術の発展には戦争が大きな役割を果たしたと見るべきなんだろう。
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