火薬史

 クライヴ・ポンティングの「世界を変えた火薬の歴史」"http://www.amazon.co.jp/dp/456204912X"読了。以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/46229798.html"やこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51626129.html"で少し調べてみた問題について、きちんとまとめて読める本だと思えばいい。結論から言うと、やはり大砲は中国で生まれたものだったようだ。

 まず火薬が生まれた時期は紀元800年代前半だそうだ。このあたりの記述はほぼニーダムの書籍"http://en.wikipedia.org/wiki/Science_and_Civilisation_in_China"に拠っているそうだが、その証拠となるのは850年ごろに書かれた真元妙道要略"http://blog.sina.com.cn/s/blog_7cdd184e0100xllw.html"なる書物だそうで、「有以硫黄、雄黄合硝石、并蜜焼之、焔起焼手面、及燼屋舍者」という文章がある(p28-29)。中国は唐の時代だ。
 破壊力のあるものは当然武器として使用される。火薬以前から石油やナフサを使った兵器(ビザンチンで使われていたギリシャ火)は中国にも伝わっていたが、やがてその兵器に点火する導火線として硝石の割合が低い初期の火薬が使われるようになったんだそうだ。これが武器に火薬が使われた最初の事例で、具体的には狼山江の戦い(919年)が最初の使用例だという(p37)。「呉越略史」"http://www.4hn.org/modules/article/reader.php?aid=910&cid=91542"なる本に「火油」が使われたとの記述がある。
 この戦いで使われた猛火油櫃なる一種の火炎放射器は、武経総要"http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%B6%93%E7%B8%BD%E8%A6%81/%E5%89%8D%E9%9B%86/%E5%8D%B7%E5%8D%81%E4%BA%8C"という1040~1044年に編纂された書物に載っているそうだ"http://en.wikipedia.org/wiki/File:Chinese_Flamethrower.JPG"。この本には他にも様々な火薬を使った武器が紹介されている(p38-39)。そしてこの時期には既に工場での火薬や猛火油の本格生産も行われていたそうだ。
 ポンティングによれば火薬の武器使用は以下の経過を辿ったという。まずは火矢に使ったり猛火油櫃の点火に使うといった使用法。次に火薬そのものを火炎放射器の原料とする方法だ。ここで登場したのが火槍。以前も紹介したが、10世紀に敦煌で描かれた絵の中に火槍を持った悪魔の姿がある"http://en.wikipedia.org/wiki/File:FireLanceAndGrenade10thCenturyDunhuang.jpg"。初期の頃は噴出す炎の射程は3.6メートル(p48)、後に鉄製の砲身を使い中にくず鉄などをつめたものは最長9メートルの飛距離を誇ったという(p49)。
 3番目は火薬の爆発を利用した爆弾。これの最古のものは霹靂砲と呼ばれ1000年ごろに使われるようになった(p50)が、煙や爆発音が主な効果で爆発そのものによる効果はまだ小さかったようだ。鉄の外殻を持ち、爆発で死傷させる本物の爆弾「震天雷」は13世紀には生まれていたようで、金史"http://gx.kdd.cc/2/11/"の中には「其守城之具有火炮名震天雷者」という文章があり、鉄の鎧でさえ貫通したとされている。元寇で使われた「てつはう」もこの一種だろうし、中国では地雷や水雷も発明されたそうだ。
 4番目の発明は火薬を推進剤に使うロケット。正確な時期は不明だが少なくとも1206年の襄陽の戦いでは「薬箭」と呼ばれるロケットが使われていたらしい。おそらく襄陽守城録"http://www.chinagonet.com/main/view_post.php?pid=2604309"なる本が元になっているのだろう。13世紀半ばには射程距離は450メートルに伸び、多発式、多段式のロケットも間をおかずに開発された(p62-64)。この武器はアジアでは色々と使用されたが、欧州ではあまり普及しなかった。
 最後に開発されたのがいわゆる大砲。本格的な大砲は砲身の内径とほぼ同じサイズの弾丸を撃ち出すものを言うそうだが、最初からそうした武器を開発するのには困難が伴った。なにより火薬の爆発に耐える素材の開発こそが最大の問題だったようだ。そこでまず登場したのが噴火器と呼ばれる武器。最初は上に紹介した火槍のように、火炎放射器に小さな弾丸を詰め込んだものが出てきたという。続いて飛雲霹靂砲という霹靂砲を撃ち出すものが登場。そして1100年代の前半には、内径とほぼ同じサイズの弾丸を撃ち出す仕組みが生まれた(p65-68)。
 前にも紹介した四川省の像("http://books.google.co.jp/books?id=BZxSnd2Xyb0C" p581)がその証拠だが、その時期は上記の本で書かれている想定時期より古い1128年となっている。入り口にある像の寄贈者が設置した銘板から裏づけられるんだそうだ。ニーダムらが1988年に書いた文章"www.jstor.org/stable/3105275"でも日付は1128年まで遡るとしているので、こちらの方が正確なんだろう。そしてそれから200年が経過した1300年代には既に多様な火器が作られていたことが1344年の火龍経"http://books.google.co.jp/books?id=84ghtwAACAAJ"から分かる。だがそれ以降、中国では明末の混乱期を除いて平和な時代が続き、武器の進歩はペースダウンしていく。
 
 唐代に生まれ、北宋までは中国で国家機密として守られていた火薬と火器は、やがて金や元との戦争を通じてまず北方騎馬民族に知られ、そこからユーラシア各地へと広まっていく。欧州に最初に火薬の存在が伝わったのは1200年代半ばのルブルクの伝道がきっかけ。ルブルクから情報を得たロジャー・ベーコンは欧州で最初に火薬に言及した書物("http://books.google.co.jp/books?id=1PxJAAAAcAAJ"など)を残した人物となったが、これはあくまで特殊事例であり、基本的に火薬や火器に関する情報はイスラム世界を経て欧州に伝わったようだ。
 イスラム世界が火器を知ったのはモンゴルの征服がきっかけ。1250年代の後だとポンティングは指摘している(p81)。1260年代に対南宋戦のため中国へ連れてこられたムスリムの軍事顧問、アラ・アル=ディンとイスマーイールは1280年までに中東へ戻り、火器に関する正確な知識を伝えたようだ。欧州へ伝えたのは1260年代に中国へ旅行したマテオ・ポーロらか、あるいは1280年からタブリーズに滞在したルチェット・デ・レッコ、さもなくば1280年頃にモンゴルの砲手奇渥温が西方へ伝えたのだという(p80-81)。モンゴルの征服という特殊要因があったとはいえ、半世紀もせずにユーラシアの西まで伝わったという事実は凄いもんだ。
 イスラム世界では1240年頃にイブン・アル=バイタール"http://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Baitar"が著作の中で硝石について触れたそうだが、実際に戦争で使うようになったのはイブン・ハルドゥーンによれば1274年のシジルマサ包囲戦が最初の言及。ただしそこで出てくるのは火炎放射器であり、他にも爆弾やロケットの話が13世紀終盤にいくつか出てくるものの「真の大砲」がイスラム世界で使われるようになったのは次の世紀だったようだ(p84-87)。
 イスラム世界では2つの火薬帝国が生まれた。オスマン帝国とムガール帝国だ。オスマンの歴史は有名だし、コンスタンティノープル陥落に火器が大きな役割を果たしたのはよく知られている。インドではイスラム世界の少し前、1250年代には爆竹と花火が使われたそうだが、他の地域ほど火薬兵器が広まらなかったため、火器を使いこなすムガールに征服された。ただロケットだけは1500年以前からインドで広く使われており、後に英国のコングリーヴがナポレオン戦争期に本格的にロケットを導入したきっかけはインドでの戦争が理由だという(p108-110)。
 欧州では火薬の製法に関する発展が大きな影響をもたらした。材料をすりつぶし混ぜ合わせるだけだった中国由来の「サーペンタイン」ではなく、仕上げの際に水を加えてペースト状にしたうえでざるで裏ごしする「粒状化」の技法は火薬の威力を増し、大砲だけでなく手持ち型の火器の発展ももたらした(p150-152)。大砲も小型化し、戦争で多様な使い方がなされるようになった。
 
 さてでは中国で生まれた火器が、最終的にはなぜ欧州で大発展を遂げたのだろうか。ポンティングは中国が1360年代以降に平和な時代に入って開発が止まったのに対し、欧州はずっと戦乱が続いていたことが理由だと見ている(p184)。この戦争は単に技術開発を進めただけでなく、硝石の生産といった困難な問題を解決するため国家権力を増強する方向にも働いた。多くの国で勝手に個人の所有地に入って硝石を集める権限を国が求め、また戦争に必要な資金を集めるために中央集権も強化された。一方、火薬の登場によって城の防御力が失われた結果、地方の居城に立てこもっていたローカルな権力はその力を失っていった。財政=軍事国家をもたらした大きな原動力が火薬だった、というわけだ。
 ポンティングは軍事技術面では19世紀になっても中国は決して欧州に一方的にやられていたわけではないと見ている。欧州近代兵器は持っていなかったものの、昔ながらの武器はそれなりに効果的だったし、防御施設は火器に対してかなりの抵抗した。もちろん全く同格とまでは行かなかったようだが、例えばアヘン戦争でも火器の「祖国」としての矜持は見せたようだ(p242-244)。それでも敗戦に追い込まれたのは事実。技術は別に戦争だけを理由に発展するわけではないだろうが、武器である火器技術の発展には戦争が大きな役割を果たしたと見るべきなんだろう。
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