続タボール橋

 さて、前回まででタボール橋の奪取に関するそれなりに信頼できそうな史料の紹介を行った。それぞれの中身を分析してみると、実はミュラの報告(Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat, IV"http://archive.org/details/lettresetdocumen04mura" p146-148)とオーストリア側の史料(Mittheilungen des K. K. Kriegs-Archivs, III. Jarhgang."http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ" p326-331)には、結構共通した部分がある。
 オーストリア側史料の冒頭に出てくる2台の馬車は出てこないものの、その後の動きはミュラの報告と似ている。何よりベルトラン将軍という共通の名前がどちらにもあるし、そのベルトランを含めた少数の士官がまず最初に橋を渡った点も同じだ。その後も、追加で次々とフランス軍の士官がドナウ左岸まで移動したこと、それに続いて擲弾兵が前進したこと、彼らに向かってオーストリア軍が砲撃しようとしたのを先行したフランス軍士官たちが押し留めたこと、アウエルスペルク公が最後に登場することなど、双方の記録はかなり一致している。
 一方、デュマ軍医の記録は大雑把すぎて具体的な事態の経過が分からない。彼は後から橋を渡った擲弾兵師団の軍医だったため、実際のやり取りは見ていないし報告も受けていなかった(そういう立場ではない)のだろう。少なくともミュラの報告より事態の正確性について劣ることは否定できない。タボール橋を巡る史実は、おそらくミュラの報告とオーストリア側史料とをつきあわせたものが一番近いと思う。
 
 だとすると漫画に描かれたタボール奪取の場面は、史実とは結構違う部分が多いことになる。もちろんフィクションなのだから違って当たり前。正装に着飾った2人の元帥が何の武装もせずに彼らだけで橋を渡り、はったりだけでオーストリア軍を納得させたというあの場面は、あくまで「漫画」だ。岸田恋氏の「戦争と平和」にもほぼ同じシーンがあったが、それも含めてフィクションであることは間違いない。
 史実におけるはったりの主役は、そもそもランヌでもミュラでもない。オーストリア側の記録を見る限り、休戦が既に結ばれたと請け負って橋を明け渡すよう強力に求めた一番の当事者はベルトランである。ミュラの報告を見ても真っ先に橋を渡った士官たちはベルトラン、モワセル、ラニュスであり、そこにはランヌもミュラも入っていない。
 それでもミュラの報告を見る限り、ランヌは後からではあったが橋を渡り、オーストリア軍が砲撃しようとしたのを防いだことになっている。オーストリア側の史料ではその裏づけは取れないが、ミュラがこういう部分で嘘をつく必要もあまり感じられない。だからランヌは、終盤だけではあったが、はったりに参加したのだろう。ただし、その他大勢の士官たちと一緒に行動していたようだし、オーストリア側の史料で触れられていないってことは、外見で明確に元帥と分かる格好をしていなかった可能性もある。
 もっと問題なのはミュラだ。彼は自身の報告で、自分の果たした役割について「擲弾兵旅団に列を作って進ませ」たとしか述べていない。オーストリア側の史料にもミュラがはったりに参加したという話は載っていない。加えて、橋が落ちた後に到着したアウエルスペルクがミュラに会うため橋と橋の間の中州(Zwischenbrücken"http://de.wikipedia.org/wiki/Zwischenbr%C3%BCcken")に移動したと書かれていることを踏まえるのなら、ミュラはその時点でもまだ橋の南に留まっていたと見るべきだろう。彼は最前線ではなく、その後方にいて全体の指揮を執っていたのである。
 アウエルスペルクの役割も問題だ。確かに彼はフランス軍の前進を知らされてもすぐに橋の破壊を命じなかった点において、橋の失陥に責任があったのは確かだろう。しかし、フランス軍が来た現場に彼が居合わせ、そのはったりに騙されてフランス軍の通過を認めたというのは間違いだ。彼が橋に到着した時には既にフランス軍が橋を越えてドナウ左岸に到着していた。ミュラの報告書もそうであることを匂わせている。
 
 では漫画に描かれたような話はどこから出てきたのか。既に言及しているが、おそらくはトルストイの小説「戦争と平和」が元になっている。同書"http://www.gutenberg.org/files/2600/2600-h/2600-h.htm"のBook Two, Chapter XIIには、登場人物の口を借りてこのタボール橋奪取の話が語られている。
 トルストイによれば「ミュラ、ランヌ、そしてベリアールが乗馬して橋に向かった」。彼らは「単独で」白いハンカチを振りながら橋に近づき、そこにいた士官に対して休戦が成立したと述べ、アウエルスペルク公を呼ばせた。彼らは「[オーストリア軍の]士官たちを抱擁し、冗談を言い、大砲に腰掛けて」連合軍の注意をそらし、その間にフランス軍の大隊が橋に接近してきた。やがてアウエルスペルク公が到着。フランスの元帥たちの親密な態度と「ミュラのマント及びダチョウの羽根」に惑わされたアウエルスペルクは、彼らの話を信用した。そしてフランス軍が到着し橋を奪った時、「ある軍曹が橋を爆破するよう合図した」がランヌがその手を押さえた。軍曹がアウエルスペルクにあなたは騙されていると指摘すると今度はミュラが「部下にそのようなことを言わせるとは、世界的に有名なオーストリア軍の規律からは考えられませんな」と述べ、アウエルスペルクはこの軍曹を逮捕させた。
 以上がトルストイ版タボール橋奪取のシーンだ。ミュラの報告書やオーストリア側史料とはかけ離れた話になっていることが分かる。彼はミュラ、ランヌ、ベリアールの3人はいずれも「ガスコーニュ人」であり、ガスコーニュ人らしいはったりで橋を奪ったと書いているが、実際にはランヌはともかくミュラの出身地はガスコーニュから微妙にずれているし、ベリアールに至ってはガスコーニュとは関係のないヴァンデ出身だ。その点だけ見ても、トルストイが面白おかしく話を盛り上げたことが想像できる。もちろん「戦争と平和」はフィクションなので、ウソを並べても何の問題もない。
 しかしフィクションでもないのにトルストイの話をなぞっている本は拙い。たとえばThe Wars of Napoleon"http://books.google.co.jp/books?id=h_TguykH1qcC"という本を読むと、p50-51にトルストイの話を短縮したような挿話が紹介されている。そこではミュラとランヌが「立派な服装」(p51)で橋を渡り、アウエルスペルクをはったりで騙したことになっている。もっとも著者はトルストイを元にしたのではなく、マルボの回想録"http://books.google.co.jp/books?id=MPJAAAAAYAAJ"がソースだとしている。しかしそのマルボ回想録を見てもアウエルスペルクの到着はミュラとランヌが橋を渡った後になっており(p240)、彼らに騙されたアウエルスペルクが「彼らを通す準備をした」などとは書かれていない。この著者が実際に参考にしたのはマルボではなくトルストイだと思われる。
 実は私も偉そうなことは言えない。こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/37509754.html"ではミュラの実績について「タボール橋を無傷で奪ったのは、指揮官としての能力より演技力の方を問われたケースかもしれない」などと書いてしまったが、最も信頼できそうな史料を見る限りミュラははったりをかましていた士官たちの中に含まれていなかった可能性が高い。確かにサヴァリー、マルモン、ラップ、マルボなど、回想録作者たちは軒並みミュラの名をランヌと並べて取り上げているが、これらは所詮回想録。より確実な証拠が見つからない限り、ミュラが演技力を試される場面はなかったと考える方が妥当だろう。
 文豪が取り上げたおかげで史実かどうか怪しい話が流布する、ってのはナポレオン戦争ではそこそこ見かける事例だ。ナポレオン戦争後の19世紀がまさに文豪の時代だったおかげで、たまにこういう話に出くわすことがある。ここでも基本は史料に当たること。フィクションとして楽しむ分にはソースなどどうでもいいんだが、その場合は史実と無関係な「お話」であることを絶えず頭に置いておくべきだろう。
 
 なお漫画のオチはアウエルスペルクが「死刑を宣告される――が結局10年の禁固刑となった」というものだ。確かにThe Gentleman's Magazine"http://books.google.co.jp/books?id=xDJ5yuMeRpoC"の1806年4月号にはアウエルスペルクに対して「10年の禁固と資産の没収が宣告された」(p379)と書かれている。ところがこれがL'Abeille du nord"http://books.google.co.jp/books?id=4rZGAAAAcAAJ"に紹介されている1806年12月13日付のウィーンからの手紙によれば「皇帝はアウエルスペルクの罪を和らげ、位階を全て奪ったうえで要塞に4年間投獄することにした」(p499)と書かれている。
 さらに面倒なことに、Mercure de France"http://books.google.co.jp/books?id=cysXAAAAYAAJ"には1806年3月15日の日付で、アウエルスペルクへの判決が下され、ロシア皇帝の介入によって減刑がなされて彼は位階を失った上で「領地への20年間の蟄居」(p618)を命じられたことになっている。見事なまでにバラバラだ。アウエルスペルクの処分がどうなったのか、同時代の史料を見ても実はさっぱり分からない。
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