以上、あまり当てにならない回想録や二次史料を除くと2つの史料しか残らない。まずはそれぞれについて以下に翻訳文を載せる。
「ウィーンの町は占拠され、そして少しばかりの策略を使って我々が橋を支配したことを陛下に謹んでお知らせいたします。ベルトラン将軍とモワセル将軍、及び私の副官であるラニュス少佐は橋の奪取を委ねられ、そして橋を奇襲すべく、第9と第10ユサール連隊及び第10と第22竜騎兵連隊の先頭に立って、3門の大砲とともに行軍しました。彼らはとても素早く前進し、橋の正面からいくらか離れた場所で彼らの正面を塞いでいた障壁はあまりに素早く包囲されたため、そこに配置されていた2人の哨兵はその地域に銃撃を受けた後、ほとんど逃げることすらできませんでした。橋にたどり着いたユサール騎兵は、一方から他方の端まで準備されていた火薬に火をつけようとしていた兵を止めることに成功しました。もし兵が前進すれば左岸からの砲撃が始まることが見通せたため、兵は足止めされ、そしてベルトラン、モワセル及びラニュスのみが前進しました。もし彼らが4歩以上の距離もない砲兵に向かって、朝方私[ミュラ]との会合を要請していたアウエルスペルク公のところへ向かっていると叫ばなければ、彼らは散弾に穴だらけにされていたでしょう。彼らは通されました。同時に町を通り抜けた私が擲弾兵師団の先頭に立って到着しました。私に同行していたランヌ元帥はすぐに何人かの士官とともに橋の反対側まで行きました。彼らがオーストリア軍と話し合い、我々の通過に反対すべきでないと納得させようとしている間、私は擲弾兵旅団に列を作って進ませました。彼らの前進を見たオーストリア軍は再び砲撃しようと欲しましたが、ランヌ元帥の断固とした態度が彼らを圧し、再び大砲に着火するのを妨げました。その間にアウエルスペルク公が到着し、私との会見を求めました。彼は私にその義務について話し、私は彼に私と主君の立場を話しました。その間、擲弾兵たちは渡河を終え、オーストリア軍は彼の命令でブレン[ママ]への道を後退していきました」
Lettres et documents pour servir à l'histoire de Joachim Murat, IV, p203-204
「ミュラ大公、ランヌ元帥と、この渡河点の防衛及び橋の焼却を任されていたオーストリアのアウエルスペルク公との間の会合の後に、我々は相次いでドナウのタボール橋へ移動した。
シャンピニャック氏が我々と合流したのは、話し合いがなされている時だった。フランス側の策略あるいは剛勇によって、渡河は何の抵抗にも遭わず実行された。我々は多くの大砲を奪い、休戦が結ばれたと確信させることで1万5000人以上のオーストリア軍を無力化した」
Journal Historique de la Division de Grenadiers d'Oudinot p496, 545
他にもグールゴー文書からの抜粋に書かれている話("
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k203803t" p162-166)などがフランス側史料として存在する。それに対し、オーストリア側ではなかなか当事者による史料が見つからないのが実情だ。その中でも使えそうに思われるのがMittheilungen des K. K. Kriegs-Archivs, III. Jarhgang."
http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ"に掲載されているUlm und Austerlitz(p283-394)。モーリッツ=エドレン・フォン=アンゲリ少佐が一次史料に基づいてまとめた文献とあるので、おそらく大きな間違いはないだろう。
紹介されている内容は、基本的にIan CastleがAusterlitz"
http://www.amazon.co.jp/dp/1844151719/"で記している内容と同じだ(p111-113)。Castle自身はEggerの本"
http://www.amazon.de/dp/3215016699/"など最近出版されたものを脚注で紹介しているが、さらに遡るとオーストリア側の一次史料に由来すると見ていいだろう。
その内容を全部翻訳したのでは長くなりすぎるので簡単に概要を述べる。まず前提として、フランス軍がウィーンに入城したこの時期にナポレオンとギューライとの間で休戦に関する話し合いが行われていた点を押さえておく必要がある。彼らの話は長引き、そのために両者の間で休戦が近づいているとの見方が広まっていた。
もう1つ、タボール橋なるものの構造にも言及しておくが、これは1つの橋ではない。1821年と少し後の時期ではあるが、地図"
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karte-Zwischenbr%C3%BCcken.jpg"を見てもドナウ右岸から左岸にいたるまで3つの橋を渡らなければならなかったことが理解できるだろう。フランス軍が乗り越えたのはこれら3つの障害物だった。
まず最初にやってきたのは2台の馬車。彼らはアウエルスペルクに伝えることがあるから橋を通せ、と右岸を守っていたハーベイ中尉に要求した(Mittheilungen des K. K. Kriegs-Archivs, III. Jarhgang. p326)。ハーベイが真ん中の橋にいた上官ゲリンガー大佐を呼び寄せようとしている間に今度はフランスの将軍たちが到着し、上官を呼ぶよう要求する。加えて2人のフランス兵も来て橋を塞いでいた門の錠を破壊しようとし始めた。それを止めようとオーストリア兵が発砲する。
このタイミングでゲリンガー大佐が到着(p327)。フランスの将軍たちはこの発砲に対して抗議し、さらにナポレオンの副官であるベルトランが名乗り出て、両軍の間に休戦が結ばれたため橋を爆破してはならないと主張した。両者の間にしばらく押し問答が続く。橋を破壊すれば休戦を破壊することになると脅されたゲリンガーは悩んだ。結局、残るフランス兵には橋を通らないよう約束させたうえで、彼はベルトランと3人の士官のみが橋を渡ってアウエルスペルクと交渉することを認めた(p328)。
一番北側、ドナウ左岸に達する橋を越えたものの、そこにアウエルスペルクはいなかった。彼はキーンマイヤー将軍とともに橋から離れたシュタマーズドルフにおり、ハーベイ中尉が事態を知らせにいっているところだった。判断がつかずに悩んでいるゲリンガーのところに、さらに多くのフランス軍士官が勝手に橋を越えて押し寄せてきた。彼らは橋の北岸にいるオーストリア軍砲兵と混じり、休戦の話をしながら彼らの注意を逸らそうとした。その間にウディノの擲弾兵部隊が橋を前進。ドナウ北岸に迫った(p329)。
擲弾兵に気づいたブルガリヒ大尉は砲兵に向かい「撃て! フランス軍が来ている!」と叫んだが、フランス側の士官たちが大砲に飛びついて砲撃を妨げた。オーストリア砲兵が混乱している間に擲弾兵は橋を渡って大砲を押さえてしまい、さらに橋の導火線も外して川に投げ込んでしまった。
アウエルスペルク公が到着したのはその後。ハーベイの報告を受けた時、フランスとの休戦の可能性があると見ていた彼は、自分が現場に行くまで橋を爆破する命令を出そうとしなかった(p330)。結果としてこれが大失敗。彼が橋に到着した時、既に大砲はフランス軍の手に落ちていたうえ、ランヌ元帥が続々と兵に橋を渡らせていた。彼は抗議をするべく橋の間、ドナウ中州にいたミュラに会いに行ったがもはや後の祭り(p331)。橋も大砲も失った彼にできることは残る部隊を撤退させることだけだった。
続く。
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