クラウゼヴィッツ サイト

 Clausewitz Homepage"http://www.clausewitz.com/"というサイトがある。その名の通りクラウゼヴィッツ関連のサイトで、彼が書いた本の英訳をいくつか読める点で貴重だ。たとえば1815年戦役についてまとめたOn Waterloo"http://www.amazon.co.jp/dp/1453701508/"という本は、こちらのページ"http://www.clausewitz.com/readings/1815/index.htm"でも読める。ちなみにクラウゼヴィッツが書いた1815年戦役についてはHofschröerも英訳本を出している"http://www.amazon.co.jp/dp/0806141085/"。こちらの書評"http://www.clausewitz.com/bibl/Zabecki-Review-OnWaterloo-OCRred.pdf"にもあるように、前者の方が内容は豊富なようだ。
 編者の1人であるDaniel Moranは、以前クラウゼヴィッツの1815戦役本英訳をネットにアップしていたことがある。それを読んだ時の感想はこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/45421151.html"。今回の本ではさらにクラウゼヴィッツに対するウェリントンの反論や、それを受けた編者らの分析も載っており、確かに内容は盛りだくさん。おまけにネット版では地図なども見ることができる"http://www.clausewitz.com/readings/1815/MapsAndDocs.htm"有様で、正直これじゃ紙の本は売れないんじゃないかと心配になるほどだ。
 内容として面白かったのは「ウェリントン対クラウゼヴィッツ」と題したPedlowの分析"http://www.clausewitz.com/readings/1815/eight.htm"。ウェリントンがMemorandum on the Battle of Waterlooという反論を書いたのはクラウゼヴィッツの本の英訳を読んだためだそうだが、彼がこの覚書を記した時には既にクラウゼヴィッツは死んでいた。加えてウェリントンはこの覚書を出版しないよう求めていたそうで、正直何のために書かれたものだかよく分からない。それでもPedlowによれば彼らの議論を読むことは現代においても意味があるのだとか。何よりウェリントンが自ら1815年戦役についての見方を示したのはこの覚書しかなく、当事者の発言を引き出したという意味でクラウゼヴィッツの著作は大きな意味があったと考えられる。
 とはいえ個人的に面白かったのはそういう意義付けの部分よりもより具体的な歴史論争。特に15日、ツィーテンが出した伝令がいつウェリントンの下にナポレオンの攻撃開始を伝えたかの説明は面白かった。クラウゼヴィッツとウェリントンの見方はこの点については15日夕方とすることで一致しているんだが、それに対する異論があるのは確か。Pedlowは様々な史料を引用してその時間が夕方だったことを示しており、その中に私が今まで見たことのなかったものがあった。ウェリントンの司令部にいたヴュルテンベルクの連絡将校、エルンスト・フォン=ヒューゲルが同日午後6時に書いた報告だ。
 ヒューゲルは「ちょうど今」ナポレオンがプロイセン軍を攻撃したとの命令がミュフリンクの下に届いた、と記している。ツィーテンの出した報告が夕方まで届かなかった証拠の一つと見ていい。加えてミュフリンクが午後7時にブリュッヒャー宛に書いた報告にも「ツィーテン中将が攻撃を受けたとの情報がちょうど届きました」と書かれているらしい。プロイセン側もツィーテンの情報到着を夕方と見ていた訳で、ウェリントンがナポレオンの攻撃を知った時間がかなり遅かったのは確かだろう。
 ちなみにミュフリンクの書いた報告書についてはNapoleons untergang 1815"http://archive.org/details/napoleonsunterg00lettgoog"のp287-288で読むことができる。一方、ヒューゲルの報告書については、それを掲載しているAlbert von PfisterのAus dem Lager der Verbündeten 1814 und 1815"http://books.google.co.jp/books?id=Ro1pQwAACAAJ"がgoogle bookで内容を閲覧できない。internet archiveにも見あたらないので原文は確認できないが、The campaign of 1815, chiefly in Flanders"http://archive.org/details/cu31924024320891"のp91脚注に一部が翻訳されているのは確認した。ただしこちらではなぜかヒューゲルはプロイセンの代理人とされている。
 さらにミュフリンクが1816年に出版した戦役に関する記録にも、フランスによる攻撃の情報がブリュッセルに届いたのは午後4時半と記してあるそうだ。これまたgoogle bookでは閲覧できない"http://books.google.co.jp/books?id=7wRslAEACAAJ"んだが、1817年にドイツ語で出版された本"http://books.google.co.jp/books?id=q9hNAAAAcAAJ"があり、そこには確かにサンブルでツィーテン中将のプロイセン第1軍団が敵の攻撃を受けたとのニュースを「午後4時半にブリュッセルのウェリントン公が受けた」(p8)と書かれている。早い時期に書かれた史料で、夕方到着説が多く見られることが分かる。
 こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52056271.html"でも述べているように私はHofschröerの主張にかなりの疑惑を感じている。ヒューゲルの証言はその疑惑をさらに強化するものだ。ウェリントンがナポレオンの攻撃を知ったのは15日夕方と見る方が、おそらくは妥当だろう。
 
 もう一つ、Pedlowの指摘で興味深いのは、ウェリントンが第1軍団の集結地点としてニヴェールを指定したことだ。この命令に文字通りに従っていたならば、キャトル=ブラはがら空きとなりフランス軍の進撃を止める部隊がいなくなってしまった。なぜウェリントンはキャトル=ブラを空ける危険を冒したのか。プロイセン軍がシャルルロワから退却した後はゴスリーに集結すると事前にウェリントンに伝えていたからだ、というのがPedlowの指摘。シャルルロワとキャトル=ブラの間にあるゴスリーにプロイセン軍が集まるなら、そこの街道は彼らが守ることになる。だからウェリントンはキャトル=ブラを空けてニヴェールに兵を集めても問題ないと思ったんだそうだ。
 裏付けとなるのはPflugk-HarttungのVorgeschichte der Schlacht bei Belle-Alliance"http://books.google.co.jp/books?id=AdusQAAACAAJ"という本らしい。困ったことにこれまたgoogle bookでは読めないうえにinternet archiveにも見あたらない文献だ。もしかしたらこちら"http://www.waterloo-campaign.nl/preambles/blucher_wellington.8.pdf"に載っている「ナポレオンが前進してきた場合のツィーテン部隊の配置」(p13)が論拠かもしれない。5月2日に書かれたこの文章によれば、第1軍団の第1旅団はゴスリーに後退してその背後に布陣することになっている。
 しかし実際にはプロイセン軍はゴスリーを早々に諦め、フルーリュスへと後退していた。がら空きになりかねなかったキャトル=ブラ街道を救ったのは第1軍団の参謀長だったコンスタン=ルベックだったとPedlowは結論づけている。ただしその論拠はLa campagne de 1815 aux Pays-Bas, Tome Premier"http://archive.org/details/lacampagnedeaux00basgoog"。以前にこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52071176.html"でも指摘したが、この本を読んでもコンスタンがペルポンシェより積極的に命令無視をしたと判断できる論拠は見つからない。Pedlowは他に何かそうした論拠を知っているのかもしれないが、それなら是非教えてほしかったところだ。
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