ディートリヒシュタインからトゥグートへ
1795年9月23日
(前略)クレアファイト軍の敗北が彼らを虐殺しないことを期待する必要があります。ジークへの退却におけるカラクツァイ連隊及びハンガリー連隊の輝かしい行為は信頼を呼び起こしました。ヴルムザー氏が彼を性格づけるその情熱、熱意及び自制心について麾下の将軍たちと共有できるであろうこと、彼が盲目的に服従されること、手綱の下で色あせた人々にありがちですが彼らが遭遇するであろう矛盾に混乱することなく自らの優位を利用できること、そして多くの士官が陛下の軍に存在すると主張している落胆が事実によって否定されオーストリア兵の昔からの忍耐強さに取って代わること、そして最後にもしそこまで後退することを強いられたなら、敵にその前進の代価を大いに支払わせた後でドナルヴェルト周辺で再び栄光の舞台を演じることを望む必要があります。w足しがオーストリア軍をよき精神が支配していると主張する時は、私は特にどのような批判よりもあらゆる賞賛に値する兵士たちのことを話そうとしています(中略)。
クォスダノヴィッチが、ファルツ守備隊があれほど恥ずかしくも明け渡した都市を離れるのを見ながら、サルディニア王がフランスを見捨てた時にサルディニア軍を武装解除した1703年のヴァンドーム公の例に倣おうとしなかったのは、嘆かわしいことです。
ホッツェ将軍は22日にバーゼルで、モンベリアール譲渡を含むヴュルテンベルク公の講和が既に印刷されているのを見つけました。バーデンもこの条約に参加しました。ファルツ選帝侯も、マンハイム降伏から判断するにそうしたように思われます。
ハルデンベルク氏は、彼らが停戦ラインをほとんど守らないことを理由に、フランスを激しく非難しその人々を信頼に欠けると述べました!
フランクフルトのホーエンローエ公は、我々が彼と始めなければならない所謂交渉について大言壮語し、クレアファイト氏が戦いを行わなかったことを非難し、そしてホーエンローエ公が我らの軍の退却を守り後衛部隊になることを強いられるだろうといいました!
1792年のシャンパーニュからの逃亡において、より強力でない陣地にあってクレアファイト氏とホーエンローエ=キルヒベルク公麾下の小規模なオーストリア軍部隊が巨大なプロイセン軍の退却を守ったことを考えるのなら、6万人のオーストリア軍が4000人のプロイセン軍にこの任務を負うのは辛く恥ずかしいことです。(後略)
Thugut, Clerfayt und Wurmser"
http://books.google.co.jp/books?id=J04_AAAAcAAJ" p228-229
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