ウルム追記2

 シュリーフェンプランに拘泥していたどこかの陸軍と異なり、融通無碍なナポレオンは状況に応じ作戦を変更することに躊躇いを見せなかった。マレンゴ戦役の際に、最初はサン=ゴッタルド峠を越える作戦を計画しながら、最終的にはグラン=サン=ベルナールに変更したのがその一例"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/epingles.html"。もちろん、作戦を変更するにはそれなりの理由があった。1805年には一体どんな理由で変えたのか、こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/ulm.html"でもいくつかの説を紹介したが、La campagne de 1805 en Alleagneの著者たちもこの点に焦点を当てて議論をしている。
 著者たちはまず8月25日の時点でナポレオンが連合軍の動きをどう見ていたかを分析している。同日付でナポレオンがタレイランに宛てて記した手紙には「問題は20日の時間を稼ぎ、私がラインへ向かっている間にオーストリア軍がイン河を渡るのを妨げることにある」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième"http://books.google.co.jp/books?id=Ha3SAAAAMAAJ" p134)と記している。つまりナポレオンは、この時点で連合軍がイン河、即ちオーストリアと南ドイツの境界を越えるまでにしばらく時間を稼ぐことができると考えていた様子が窺える。
 実際にはオーストリア軍はヴェルスに部隊を集結させているところであり、9月2日にはマックがそこに到着してすぐに出発を命じている(Der Krieg 1805 in Deutschland"http://books.google.co.jp/books?id=OGZBAAAAIAAJ" p26)。そして8日にはクレナウとゴッテスハイムの部隊がイン河を越えてバイエルン領内になだれ込んでおり(p28)、ナポレオンが見込んでいた「20日間」の時間を稼ぐことはできなかった。
 ナポレオンが連合軍側が思ったより早く動いている事実を把握したと思われるのは8月28日だ。27日時点でベルティエからペティエに出された命令(La campagne de 1805 en Allemagne, Tome Premier"http://archive.org/details/lacampagnedeena03coligoog" p346)の中に「皇帝はストラスブールに8万人のための野営装備を集めることを望む」との文章があり、大陸軍のかなりの部分をシュヴァルツヴァルト正面のストラスブールに集めようとしていたことは確かだろう。
 しかし28日付でドジャン将軍に出した命令では「私は50万のビスケットをストラスブールに集めるよう要請していたが、以下のように分けても問題ないと思う。即ち20万をストラスブールに、20万をランダウに、そして10万をシュパイアーに」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième, p153)。23日の命令(p123)でストラスブールに集めることになっていたビスケットをより北方に分散させたこの命令をもって「皇帝は軍の集結地域、及びラインの渡河地点をより北方に持っていくことを考えた」(La campagne de 1805 en Allemagne, Tome Premier, p166)と、著者らは指摘している。
 
 連合軍の動きの早さが、なぜ集結地点を北方へシフトさせることにつながったのか。28日時点ではマックがウルムへ向かうことまでは分かっていなかった。彼らがヴェルスに集結中であることすらナポレオンは知らなかったという(La campagne de 1805 en Allemagne, Tome Premier, p167)。だからウルムのマックを包囲するためシュヴァルツヴァルトを避けて行軍しようとした、と考えるのは無理である。
 一方で連合軍の準備がナポレオンを驚かせたのも事実だ。彼は当初、兵をラインへ送れば相手を怖気づかせることができると考えていた。しかしオーストリア軍が本気で戦争に備え、ロシア軍の到着を待っていることが分かり、次にはその準備が終わるまえに駆けつけようとした。実際には連合軍の動きはずっと進んでおり、バイエルンへの侵攻は避けられない状態にあった。
 そこで問題になったのはハノーファーからヴュルツブルクへ進むベルナドット、及びオランダからマインツへ進むマルモンの部隊だった。もし敵より先にバイエルンに到着できるなら、彼らとブローニュの主力軍との合流はドナウ河畔で行っても問題はないだろう。敵と接触するのは合流後だから、各個撃破される恐れもない。しかし連合軍の動きが想定より早いとなれば話は別だ。オーストリアとドイツ国境の町パッサウからシュヴァルツヴァルトまたはハイデルベルク(マンハイム近くの町)までは直線距離で400キロメートル。それに対しブローニュからラインまでは600キロメートルあり、しかも道は曲がりくねっている。
 オーストリア軍の出発が大陸軍より10日後だったとしても彼らは先にラインに到着し、そして分散した大陸軍を個別に打ち破ることが可能な内線の位置を占めることになる。それを避けたければブローニュの主力軍の集結地点をより北方へシフトし、マルモンやベルナドットに近づけるしかない。「敵の近傍で集結するのは戦略的な失敗」(p168)である以上、少しでも前倒しで大陸軍が集まることができる布陣を敷くことが必要だ。かくして敵と接触する前にマインツを最初の支点とした作戦線に20万人の大軍を集められるような命令変更が行われた、というのがこの著者らの見解である。
 こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/ulm.html"で紹介した諸説の中ではEsposito & Eltingの見方が最も近い。またMaudeはThe Ulm Campaign"http://archive.org/details/ulmcampaign180500mauduoft"の中で「フランスの公式戦史」としてオーストリア軍が先にラインへ到達する可能性を紹介している(p123)。もっとも作戦変更の理由としては、安全性への配慮でなくボヘミアから来るロシア軍への対処も視野に入れている(p124)というのが彼の説だ。
 
 ナポレオンが軍の配置を変更したのは間違いない事実だ。その理由について複数の説があるのは、おそらくナポレオン自身が理由を明確に説明していないからだろう。皇帝がなすべきは戦争の準備であって、その理由をいちいち説明する必要は確かにない。最初に述べたように状況に合わせて彼が作戦を変更するのはよくある話であり、その理由が記録に残っていないとしても別に不思議はない。
 ただし、彼がウルムのマックを包囲する目的で配置変更を行ったわけではない、ということは確実に言えるだろう。ウルム戦役が彼の傑作であることは確かだが、その結末を最初から見通して作戦を立てていたと主張する人間がいたら、眉に唾をつけるべきである。ナポレオンがいつウルムのマック包囲を決断したのかについては改めて調べる必要があるが、少なくともラインへ兵を差し向けると決めた時点ではそんな未来のことなど分からなかったはずだ。
 ナポレオンは8月25日付のタレイランへの手紙の中で「オーストリア軍がそれほど決意を固めているとは思わない。だが私は人生で多くの失敗をしてきたし、それを恥じてはいない」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Onzième, p134)と述べている。ナポレオンはあくまで人間であり、軍事に関する天才だったとしても神様ではなかった。当然、失敗することも間違えることもあった。連合軍の反応を読み損ね、慌てて対応の変更を迫られることがあったとしても、別に驚くべきことではないだろう。むしろ間違いに気づいたところですぐ修正した点にこそ、全盛期の彼の凄みがあると考えるべきなのかもしれない。
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