ロシアの気球

 以前、ナポレオン戦争期の気球の話をいくつか書いたことがある。その中に1812年にロシア軍が気球を作って戦争に投入しようとしていた話があった"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/47557420.html"。この件に関する新しい情報が入ったので書いておこう。
 
 気球の製作に当たったのはドイツ人のフランツ・レピッヒ"http://de.wikipedia.org/wiki/Franz_Leppich"。気球だけでなくパンメロディコンなる楽器"http://de.wikipedia.org/wiki/Terpodion"の製作までやっていたそうなので、ちょっとした発明家みたいなもんだったんだろう。
 気球製作を主に支援したのはモスクワ総督のロストプチンだ。それを示すのは1812年11月に英国で出版されたCobbett's Weekly Political Register"http://books.google.co.jp/books?id=0a4TAAAAYAAJ"のp659-660に収録されているレピッヒの手紙。彼が気球の製作状況についてロストプチンに知らせた3つの手紙(英訳)が載っているので、以下に紹介しよう。日付はカッコ内がグレゴリオ暦だ。
 
「レピッヒが署名したロストプチン総督宛の3つの手紙の写しと翻訳
 (このレピッヒは似非機械技師で、有名な時限爆弾気球の作成指揮を委ねられていたように思われる。最初の手紙でロストプチン氏自身がこの仕事のため必要な資金を提供していたことが分かる)」
 
「ロストプチン伯爵様
 1812年7月30日(8月11日)
 伯爵様、どうかこの機に私へ1万2000ルーブルの紙幣を送るようお願いします。――畏くも閣下に心からご挨拶を申し上げます。
 (署名)レピッヒ」
 
「ロシア語からの翻訳、1812年8月24日(9月4日)
 伯爵様、――私が気球の完成にどれほどの困難を抱えているか、閣下自身もほとんど思い描けないでしょう。職人の訓練不足のため私は実に取るに足らないことを自らしなければならなくなっています。またロシア語を知らないため、私はドイツ人しか雇えません。これら全てが本日の浮上を妨げましたが、とうとう私の気球は完成しました。明日正午、失敗することなく私はそれを浮上させ、数時間のうちにモスクワからは望遠鏡でしか見えなくなるでしょう。敬具。
 (署名)レピッヒ」
 
「(フランス語で書かれた手紙)
 伯爵様、――私の企図を成功させるためどれほどの困難を乗り越えなければならなかったか、あなたには想像できないでしょう。そして何より私を悔しがらせたのが、昨日、私の目的が達成されたように思えた時、質の悪い鉄のために機械のばねが機能しなくなったことです。機械はうまく前進し翼とともにいくらか移動しましたが、ついにばねが壊れ、私は操作を終わらせることを余儀なくされました。気球は膨らみ他の全ての器具も整っています。もしあなたが臨席する名誉を私に与えることで、これらの点に納得してくださるなら、私は大いに満足するでしょう。――私が述べたように、モスクワで入手し得る最良のものであったにもかかわらず、質の悪い鉄のせいで遅れが生じました。ある人が、より質のいい鉄を供給することでこの困難から私を解放してくれると約束したため、私はその結果を待たねばならないと述べる必要があるでしょう。――私がこの遅れをとても残念に思っていると述べた時に、閣下は私を信じてくださるだろうと自任しています。ですが約束された鉄を受け取った時には、全てはうまくいくでしょう。――敬具。
 (署名)レピッヒ」
 
 金の無心と完成しないことについての言い訳。「似非機械技師」"quack mechanician"呼ばわりされるのもむべなるかなと思わせる内容の手紙だ。
 だがロストプチンは最初のうちは彼を信じていたようだ。6月11日(6月23日)付で皇帝アレクサンドルに書いた手紙の中で、ロストプチンはレピッヒを「極めて有能な男であり卓越した機械技師」(Napoleon's campaign in Russia, anno 1812"http://archive.org/details/napoleonscampaig00roserich" p61)と褒め称えている。レピッヒは気球が完成すればヴィルナまで飛んでいくこともできると約束したそうであり、実際に大陸軍の侵攻に晒されている側にとっては藁をも掴みたいような気分だったのかもしれない。
 もちろん、気球は完成しなかった。ナポレオンに対抗するため、ロストプチンは気球から「ギリシャの火」を浴びせかける代わりにモスクワに火をつけるという焦土戦術を強いられた。wikipediaによるとレピッヒはサンクト=ペテルブルクに拠点を移して開発を継続。その間にフランス軍はモスクワから敗走し戦場はロシア国外へと移っていった。結局、レピッヒの気球開発は無理だとロシアが判断したのは1813年暮れであり、1814年2月にレピッヒはロシアを去った。
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