土城子・史料と伝説

 土城子関連でまた新しい史料を見つけたので書いておく。アジア歴史資料センターで閲覧できる「第2軍金州占領後景況報告」(C06060151500)がそれで、第2軍が得た土城子の戦いに関する情報が記されている。
 
「捜索騎兵隊長秋山騎兵少佐の報告に依れば十七日の午後二時には水師営の南方に敵の歩兵ありし又本日午前十一時頃より捜索騎兵は東長嶺子にて敵の歩兵約三大隊騎兵三百、砲二門に出会い徒歩戦闘を始め前兵大隊之を[判読不能]す我騎兵は退却し歩兵は双台溝西南高地に止まりて防御し敵は午後三時半旅順方面に退却せり」
 
 一部かすれて読めない部分があるが、支援とか増援という意味と見ていいだろう。この記述で興味深いのは敵兵力であり、その数は歩兵三個大隊、騎兵三百、大砲二門となっている。歩兵大隊の定員は560人ほどだったそうだから、歩兵の数は1600~1700人だろう。公刊戦史の「歩兵約五千余、騎兵約百、山砲二門」に比べれば歩兵が圧倒的に少なく、騎兵が多い。むしろ秋山の戦闘詳報に載っている「歩兵約二千、騎兵約三百、山砲二(三)門」の方が近い。
 この景況報告が書かれたのは11月25日(6/7)だ。18日午後に記された秋山の詳報よりは新しいが、それでも結構古い時期の史料であることは間違いない。清国軍の歩兵戦力が1500~2000人であったことはおそらく間違いないと見ていいだろう。公刊戦史の数はやはり数字を盛っている可能性がある。
 ちなみにこの戦闘に参加した日本軍は騎兵3個中隊、歩兵4個中隊(ただし1個中隊はほんの一瞬だけ)とされている。歩兵は1個中隊136人、騎兵は159人だったそうなので、単純に足すと1000人強だ。ただし騎兵中隊のうち少なくとも1個中隊は実際は30人未満。公刊戦史によれば捜索騎兵の3個中隊は実際には4個小隊半を欠いて("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1080724" p99)おり、騎兵中隊が4個小隊で構成されていた事実を踏まえるなら、実働戦力は2個中隊を割り込んでいた。公刊戦史は日本側の戦力を騎兵約200、歩兵約600人(p104)としており、清国軍の方に圧倒的な数的優位があったのは間違いない。
 捜索騎兵隊の弾薬損耗表など(C06062133400)も閲覧できる。数の少なかった第2中隊は銃弾50、弾薬90を消費したとある。銃弾はおそらく突撃の時などに使用したのではあるまいか。一方、徒歩戦闘をやった第1中隊は1051発の、第6大隊第1中隊は491発の弾薬を消費している。しかし死傷者を見ると第2中隊の6人(馬匹8頭)に対し、第1中隊は馬匹1頭のみ、第6大隊第1中隊は負傷1人(馬匹4頭)にとどまっている。徒歩戦闘を行わず、少数で突撃した第2中隊の損害が最も大きく、次に徒歩戦闘と突撃両方を行った第6大隊第1中隊に僅かな損害があり、徒歩戦闘しかしなかった第1中隊はほぼ無傷だった。
 だが、それを理由に「徒歩戦闘の方が安全で突撃が危険」と単純な結論を出すわけにもいくまい。「野戦衛生長官部 戦闘に於ける死傷報告」(C06060077900)によれば土城子における損害は全体で戦死14人、戦傷32人となっている。公刊戦史とは数字が違うが、いずれにせよ騎兵の損害より圧倒的に多いことは確かだ。捜索騎兵が徒歩戦闘をしていた時はまだ清国軍の数が少なく攻撃も低調だったが、歩兵が到着した後になってより戦闘が本格化したと考えた方がいい。
 消費銃弾を見ると騎兵が1700発弱だったのに対し全体では6000発(公刊戦史p104)となっており、歩兵と騎兵の銃弾使用数はその戦力とほぼ等しい比率である。つまり騎兵も歩兵も同じように弾を撃っていたことになるが、にもかかわらず歩兵の損害の方が圧倒的に多かったのは、主戦線を歩兵が担うようになってから清国軍に砲兵が到着したためではないかと想像している。乗馬して動き回る騎兵より動かない的である歩兵を狙って大砲が撃たれた結果、歩兵の損害が増えたんじゃなかろうか。1人あたりの消費弾薬は10発未満と少ないが、これは戦闘時間が短かった(公刊戦史によれば午前10時~午後1時半)ためか。
 
 また、土城子を巡って戦闘の直後から広まっていた「伝説」も紹介しておこう。近代デジタルライブラリーで土城子を出版順に検索すると、同年12月30日(つまり土城子の戦いから1ヶ月ちょっと後)発行となっている「日清交戦記」"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773904"という本があるが、そこでは淺川中隊の突撃について以下のように記している。
 
「騎兵は歩兵が我兵の退却を掩護せんとして、此苦境に陥りしを傍観するに忍びず、淺川大尉は僅かに二十四騎を以て、雲霞の如く群がる敵中に突進し、玉散る剣抜き連れて奮戦勇闘触るるに任せて人馬を切り、少時にして敵七名を倒し、其他重傷を負わしめたる者少からず」
p140
 
 見ての通り、増援に到着した歩兵が苦戦するのを見て淺川中隊が突撃したことになっている。同じ描写は1895年2月発行の「新体軍人用文」"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/866198"のp150にも見られる。公刊戦史でも、あるいは秋山の詳報でも、淺川中隊の突撃は歩兵到着前の出来事として書かれているのだが、実際に戦闘直後に伝わった情報はそれと違っていたことが分かる。
 なぜそうなったのか。一つ考えられるのは歩兵側の言い分がそうなっていたためという理屈だ。「日清戦史」第5巻"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993958"に引用されている川崎栄助二等軍曹の話によれば、歩兵が散開して配置についた後に「此時我右側に敵の騎兵四五百許り突進し来る者あり、我騎兵二箇小隊之に当り、奮進突撃して、敵兵数十人を斃す、此時我が騎兵中隊長大尉淺川敏靖氏負傷す」(p57)とある。少なくとも歩兵第三連隊の川崎軍曹は、歩兵到着後に淺川中隊の突撃があったと認識していることが分かる。
 しかし川崎軍曹の話は歩兵第3連隊の正式見解とは言いがたいようだ。「歩兵第三聯隊歴史」"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942156"には土城子の戦いに関する記述がある(p38-41)が、一連の記述のどこを見ても歩兵到着後に淺川中隊が突撃したという話は書かれていない。公刊戦史にこうした話が載っていないのもその傍証となろう。
 騎兵が歩兵支援のための突撃をしなかったわけではない。秋山詳報や公刊戦史には山本大尉の第6大隊第1中隊が左翼の敵に対して突撃した事実が指摘されている。もしこの話が紹介されていたのなら、それは「伝説」ではなかっただろう。だが選ばれたのは淡々と成功した山本の突撃ではなく、騎兵唯一の死者を出し指揮官自らも負傷した淺川の突撃だった。ドラマチックな方へと話が歪む一例であると同時に、ソースの明確でない話はたとえ古くても信用ならないことを示すものでもある。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック