ヴァンデの共和国軍人 その3

3)ジャン=ミシェル・ベセール
 ベセール"http://www.ribeauville.net/histoire/histoire_e5.html"は1753年、上ライン県リボーヴィユに生まれる。69年から軍務に就いているのだが、面白いのは81年にある連隊の外科医となってオランダ東インド会社に奉職したこと。ベセールにどの程度、外科医の心得があったのかは分からない。フランスに戻ってきたのは88年だ。
 革命が勃発するとロリアンの国民衛兵隊に所属。かつての軍隊経験を評価されたのか、1789年には少佐、90年には中佐に就任している。91年にはモルビアンの国民衛兵隊に移り、そこではなぜか大尉からやり直ししているが、それでも革命期にありがちな素早い出世を実現。1793年2月10日に中佐、3月7日に第21猟騎兵連隊の大佐となり、ヴァンデ内戦開始後の4月28日にはナントの指揮官に任じられた。5月6日にはブレスト沿岸軍の幕僚となり、王党派軍がナントを攻撃した6月29日にはカンクローの下で守備に奔走した。その活躍が理由かどうかは不明だが、翌30日にはブレスト沿岸軍の准将に任じられている。
 ややこしいのはこの後だ。7月5日、彼はナントにおいて連邦主義者としての宣言書にサインしたのである。この年の6月から7月にかけて、フランス各地では山岳派の支配に反対する連邦派の叛乱騒ぎが起きた。ベセールはどうやらこの叛乱に関与しようとしたらしく、宣言書にサインした後で一度は連邦派の多いロリアンへ逃げ、さらに12日にはウール県の連邦派部隊に姿を現したという。確かにカーンで編成された連邦派の部隊がこの時期、パリへ向けて進軍中だった。しかし、同部隊は13日に共和国側の反撃を受けると一人の死者も出さないうちに壊走。ベセールがこの部隊に同行していたかどうかは不明だが、この方面の連邦派の叛乱は呆気なく崩壊した。
 18日、国民公会はベセールに対し、釈明のため公会に姿を見せるよう要求。それを受けてベセールは8月2日にパリへ現れる。弁明に成功した彼は18日にはカンクローの下でブレスト沿岸軍に復帰したものの、この一連の行動によって革命政府からは札付きの人物として警戒されることになった。これが後に彼の運命を決める。
 9月、マインツ部隊がナントに到着し、共和国軍の攻勢が始まる。順調に攻撃を進めていた共和国軍だが、19日にトルフーで前衛部隊を率いたクレベールが敗北。Christine Duranteau"http://www.royet.org/nea1789-1794/notes/articles/article_armee_mayence.htm"によると「クレベールから見ればこの惨劇の責任はただ一人、ベセールの負うべきものだった。彼はマインツ部隊と連携するようにとの命令に従わず、旺盛な独立心の赴くままモンテギュへ前進しそこを占領した」ということになる。
 モンテギュに布陣したベセールにはシャレットとレスキュール率いる王党派軍が襲い掛かった(Sixの本では18日、wikipediaでは17日となっているが、おそらくDeniauのHistoire de la Vendee Tome 2"http://lesacristain.ifrance.com/deniau/tome2/Table_1.htm"に載っている21日が正解だろう)。まったく何の警戒もしていなかったべセールの部隊(Deniauによると8000人)は奇襲を受け、彼と派遣議員のカヴェニャックが負傷しながら奮闘したにもかかわらず、完全に壊走した。
 もともと連邦主義者として睨まれていたベセールにとってこの敗北は致命的だった。彼は逮捕され、10月2日にはアベイ監獄に送られる。1794年3月24日に革命裁判所で死刑を宣告された彼は、4月13日にディロン将軍、過激派のショーメットらとともにギロチン送りになった。
 革命期に処刑された軍人は数多い。ヴァンデに関わった軍人だけを見ても、ベセール以外に何人もの人間がギロチン送りになっている。共和国が危機に瀕した1793年は、共和国の将軍にとっても危険に満ちた1年であった。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック