ワレンのグルーシー2

 1819年にグルーシーが出したナポレオンへの反論本Observations sur la relation de la campagne de 1815"http://books.google.co.jp/books?id=fNIdAQAAMAAJ"に噛み付いたのはジェラールだった。彼は1829年に出版したQuelques documens sur la bataille de Waterloo"http://books.google.co.jp/books?id=WB4SSR3CULQC"の中で、グルーシーが砲声を聞いたときに自分は彼の近くにいたと主張した。同書には1820年1月14日にジェラールがグルーシーの息子宛に記した手紙が掲載されている。
 
「私が右翼の司令官と合流したのは午後3時ではなく、午前11時前後だ。彼が食事をしていたのはサラ=ワランの公証人オレール氏の家だった。ここに再録する必要のない半時間の面談の後、リニーの戦いで負傷したサン=レミ将軍の不在により参謀長の役割を私の傍で果たしていたシモン=ロリエール大佐が、砲撃が行われたと我々に知らせた。我々は砲声が聞こえた方角を知るためすぐ庭に向かった。情報を知るべく主が呼ばれた。彼はそれがソワーニュの森方面のものだと請け負った。この時点で私は兵を砲撃へと行軍させようとの意見を述べ、自身の軍団を率いることを申し出た。司令官は少なくともしばらくは私の意見に同意しなかった。しばらくと言ったのは後に彼が本気で左翼への移動を考えたからだが、この移動は実行されなかった」
p24-25
 
 さらにジェラールは自分の証言を裏付けるため、現場に居合わせた多くの人間の証言をかき集めて掲載している。一人は彼の参謀長の役目を果たしていたシモン・ロリエールで、以下の文章は彼が書いた報告の抜粋だとしている。
 
「自身の軍団の行軍に先行していたジェラール伯は、グルーシー元帥がこの[ワラン]村の家(オレール氏宅)に足を止めたことを知った。彼は幕僚士官たちとともにそこへ行き、私にもそれに続くよう命じた。我々はそこで閣下が食事をしているのを見た。
 この家の庭を歩いていた時、私は(11時半頃に)砲兵の爆発音を左翼側で聞いたと思った。小ぬか雨が降っていたため騒音はほとんど聞こえなかったが、その音は間違えようがなく、私は急いで将軍に知らせるために行き、彼はすぐ元帥とともに私が騒音を聞いた庭の高いところへ向かった。そこには多くの士官、特に元帥、ジェラール伯の士官たち、ヴァンダンム及びエクゼルマン将軍の副官あるいは従卒、同様に我々の監察長官であるドニエー氏がいた。誰もが私が間違っていないことに納得した。15分ほどで雨はやみ、砲撃がはっきりと聞こえるようになって地面が振動した。元帥自身もヴァグラムの戦いの再現だと思った。
 我らがいた家の主であるオレール氏が元帥に呼ばれ、この恐ろしい砲撃が行われている場所がどこだと思うか問われた。彼は、我々がいるところから約3リュー半の遠い地点にあるソワーニュの森を指し示した。そしてジェラール将軍は『皇帝の作戦とすぐ連携できるようにするため、砲声に追随して行軍しよう』との見解を明らかにした。彼は『もし元帥が全兵力を振り向けるべきだと判断しないのなら、この移動を自身の軍団及びワラン将軍の軽騎兵師団で実施する』と提案し、『夜明け以来我々の正面にはワーヴルで集結したプロイセン軍の退却支援を委ねられたティールマン軍団のみがいると知らされているのだから正面について心配はない』と意見を述べた。そして『どんな状況にせよ我々の皇帝への合流は双方にとって役立つ』と話した。元帥はこの意見に同意していないようだった。彼は続いて右岸を行軍しながらワーヴルへの道を進んだ」
p12-14
 
 次はロリエールの証言中にも出てきたドニエー氏で、彼はグルーシーの本を読んで以下のようにジェラールに伝えてきた。
 
「何ということだ! グルーシーさん、あなたが18日にサラ=ワランで昼食を取り、そしていくら遅くとも11時にはジェラール将軍があなたのいた農家に到着し、あなたが彼と話し、あなたが彼及び何人かの士官とともに管財人の家にある種類の庭に入り、その庭の真ん中には小さな丘があってその上に(正確な詳細が必要なら)天窓があり緑に塗られた東屋があったことを思い出しなさい。さらに私はここでグルーシー伯に付け加えます。その時我々の左側で砲声が聞こえ、何人かの士官がその方向をよりよく判断するため地面に耳をつけたことを思い出しなさい。ジェラール将軍があなたに対して『砲声に向かって進む必要があります、そうしましょう』と言ったことを思い出しなさい。
 (中略)あなた[ジェラール]の答えの後でバルテュス将軍が砲兵を危機に晒す行軍の困難さに反対しました。以来しばしば我々の話題となったこの問題は特によく思い出します。最後に、あなたが不運にも負傷した時、夜の間に我々があなたを運び込んだのもこの農場でした」
p18-19
 
 さらにジェラールはブリュッセル在住のカトワール氏に頼み、砲声を聞いたときに彼らがいた家の主であるオレール氏の証言も手に入れた。
 
「私はサラ=ワランの家の主[オレール]に会いに行きました。彼は1815年6月18日朝、グルーシー元帥が彼の家で食事をしている時に何人かの士官を連れた1人の将軍(あなたの容姿に関する描写はありますが名前はありません)が元帥と話すために訪れ、少し後に元帥が彼とともに砲声の方角を調べるため庭に向かったこと、それからこの問題について意見を述べるため彼が呼ばれたこと、それがプランシュノワ、モン=サン=ジャンその他の方面のものだと言ったこと、同日夕に重傷を負った将軍が彼の家へと運ばれ、彼がジェラール将軍であると話され、そこで銃弾の摘出が行われたことについて認め、公式に私へと書いてよこすことを約束しました」
p19-20
 
 加えて1830年に出版したDernières observations sur les opérations de l'aile droite de l'armée française à la bataille de Waterloo"http://books.google.co.jp/books?id=n0tBAAAAYAAJ"の中には、工兵のヴァラゼ将軍の証言も引用している。
 
「私は城館の一室におり、近くの部屋にはあなた[ジェラール]がグルーシー将軍と一緒にいました。前衛部隊とプロイセン軍が交戦していることを、いくらかの砲撃が教えていました。その時、恐ろしい砲撃が我々を慌てて飛び出させました。――会戦だ、あそこで戦いが起きていると、我々は左翼方面の煙を見ながら言いました。私は帝国親衛隊から来た私の案内兵の1人に、あの砲撃はどこかと聞きました。――モン=サン=ジャンの方面ですと彼は答え、3、4時間で彼らが戦っている場所にいけると言いました。城館の主も同じことを言いました。あなたがすぐ庭の真ん中に立てられた東屋でグルーシー将軍を捉まえたのを私は見ました。私はあなたに近づき、そしてあなたが大きな声で砲声へ進む必要があると言っていたのをよく憶えています。砲声へ進む必要があると。グルーシー将軍とバルテュス将軍は砲兵にとって道が極めて困難であることを指摘しました。私は自分が3個中隊の土木工兵を持っており、それを使って多くの困難は克服できると説明しました。あなたは少なくとも弾薬箱とともに到着できると請け負いました。彼はなお、夜と前日の雨のため近道を通る歩兵は大いに苦しむだろうとの意見を述べました。私が相談した案内兵はとても興奮しながらそれは大した問題ではないと主張し、私は再び土木工兵が多くの道を作れると請け負いました」
p31-32
 
 いずれもジェラールがサル=タ=ワレン(サラ=ワラン)の家でグルーシーと遭い、そこでワーテルローの砲声を聞いてそちらへ向かったことを指摘している。さらにナポレオンの証言では出てこなかった「全兵力を向けないのならば、第4軍団と軽騎兵だけで左翼へ向かう」というジェラールの発案もジェラール自身及びロリエールの報告の中に出てくる。
 他にナポレオンの証言と違うところとしては、グルーシーが一度は左翼への前進を決断しながらワーヴル方面の戦闘のためそれを取り消したという部分。ジェラールの書いたグルーシーの息子への手紙の中には「後に彼[グルーシー]が本気で左翼への移動を考えた」との一文があるが、他の証言者たちはそこまで明確に言及していない。また、エクゼルマンが最初に左翼への前進を提言したという部分も、ジェラールの話には出てこない。
 とはいえこれだけ大勢の証言が集まったのは大きな意味を持つ。何よりロリエールの報告書が(ジェラールの言い分を信じるなら)戦役の最中に書かれたものであることは重要だ。ナポレオンの証言もグルーシーの反論も戦役から数年後に書かれたものであり、おまけにどちらも海外で書かれたものなので記憶違いがないよう資料に当たることができなかった可能性がある。長くなったがさらに続く。
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