ワレンのグルーシー1

 ドゼーがマレンゴの戦いで砲声に向かって行軍したという逸話が論拠に欠けることは前に指摘した"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/rivalta.html"。だからドゼーの話を持ち出してワーテルローのグルーシーを批判するのも間違いである。一方、グルーシー自身の行動についてはベルトラン命令に関する話を何度か紹介している("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/45657874.html"や"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53560407.html")。ただしこれは前日に出された命令。砲声が聞こえた時に何が起きたのかについては、まだ分析していない。というわけで少し調べてみた。
 
 ワーテルローの砲声について最初に色々と指摘したのはセント=ヘレナのナポレオンのようだ。1818年に出版されたLa campagne de 1815"http://books.google.co.jp/books?id=mHRJAAAAMAAJ"の中でグールゴーはナポレオンの言葉を以下のように紹介している。
 
「ジャンブルーとワーヴル間の街道で彼[グルーシー]は昼から我々の恐ろしい砲撃の音を聞いていた。それは聞き間違えようのない、明らかに全面的な交戦の砲声だった。エクゼルマン将軍は興奮しながらグルーシーに意見した。『元帥、軍が交戦しています。激しい砲撃で我々のいる地面までも揺れています。ワーヴルへと行軍するのでなく、思うに砲撃が始まった地点へ真っ直ぐ進むべきです。戦闘に参加するのに十分間に合う時間に到着できるでしょう』。元帥は迷い、そしてエクゼルマンに命令を示したうえで、もし彼の助言に従えばブリュッヒャーはおそらくフルーリュスへと行軍し、そして我々全軍の右翼を迂回するだろう、そんな責任を負うことはできない、と意見を述べた。エクゼルマンの意見に完全に同意したジェラール将軍は言った。『ですが命令にもかかわらず、あなたは昨日、ブリュッヒャーの動きが分からないためワーヴルへは行軍しない方が賢明だと考えました。今日、プロイセン軍が我々より半日先行しており、そして我々がワーヴルに行軍している間に彼らが別の場所へ進むのは明らかです。しかし我々が激しい砲撃の方角へ行軍すれば、我々が役立つことは確実です』。自身、大会戦へ参加したいとの望みに燃えていた元帥は、この意見に譲歩した。彼は歩兵に停止を命じ、サン=ランベールへ行軍する準備をしていた時、彼の前衛部隊がワーヴル方面で敵と交戦した。同時に彼はプロイセン全軍がこの町の前にいるとの通告を受けた(だが実際にはプロイセン第3軍団のみがそこにいた)。それでもなおジェラール将軍は元帥にサン=ランベールへの前進を求め、敵は単なるプロイセン軍の後衛部隊に過ぎず、彼らは自分たちの前を退却しており、決定的な戦闘は左翼側で行われるだろうと意見を述べた。だがこのような状況で彼の肩にかかった責任に恐れをなした元帥は、不幸なことにワーヴルへの行軍を再開することで万事うまくいくと考えた。たった4時間後、彼はサン=ランベールへ前進せよとのはっきりした命令を受けた。同じ影響を及ぼしたであろうその前の命令は、彼の手元に届かなかった」
p91-93
 
 彼の主張の要点は以下のようにまとめられる。
1)グルーシーにはワーテルローの砲声が聞こえていた。
2)最初に砲声への行軍を進言したのはエクゼルマンだった。
3)グルーシーはエクゼルマンにナポレオンからの命令を示して彼の助言を拒否した。
4)ジェラールが「昨日、グルーシーはナポレオンの命令に反した」と指摘した。
5)そのうえでジェラールも砲声への行軍を進言した。
6)グルーシーも一度はその助言を入れた。
7)プロイセン軍がワーヴルにいるとの報告が届いた。
8)グルーシーは当初の命令に従いワーヴルへの進軍を決断した。
 
 ナポレオンの見解は1820年出版のMémoires pour servir à l'histoire de France en 1815"http://books.google.co.jp/books?id=mdpMAAAAYAAJ"にも紹介されている。
 
「グルーシー元帥はジャンブルーの宿営地を午前10時まで出発せず、そして12時半にはワーヴルへの途上にあった。何の経験もない人間でも間違えようのないワーテルローの恐ろしい砲声を彼は聞いた。それは数百の砲門と破壊的な闘争を行う2つの軍のものだった。騎兵を指揮していたエクゼルマン将軍は衝撃を受けた。彼は元帥のところへ赴いて言った。『皇帝は英国軍と交戦しています。間違いありません。これほど激しい砲撃が小競り合いのわけはありません。元帥! 我々は砲声に向かって行軍すべきです。私はイタリア方面軍以来の古い兵です。ボナパルト将軍が百回もこの原則を繰り返したのを聞いてきました。もし左翼へ向かえば、我々は2時間で戦場につくでしょう』。元帥は『君は正しいと思うが、もしブリュッヒャーがワーヴルから行軍し私の側面を突けば、私はブリュッヒャーへ向けて行軍せよという命令を破ることになる』と答えた。さらにジェラール伯が元帥と合流し、エクゼルマンと同じ助言を与えた。彼曰く『あなたへの命令は今日ではなく昨日のうちにワーヴルにいるというものでした。最も安全な道は戦場へ行軍することです。ブリュッヒャーがあなたより1日先行していることを認めるべきです。彼は昨日ワーヴルに、そしてあなたはジャンブルーにおり、そして彼が今どこにいるか誰に分かるでしょうか。もしかれがウェリントンと合流していたのなら、我々は彼を戦場で見つけることができ、あなたへの命令は文字通りに実行されます。もし彼がそこにいなければ、我々の到着が戦いを決定付けるでしょう。2時間で我々は交戦に参加できます。そしてもし我々が英国軍を粉砕すれば、既に一度敗れたブリュッヒャーに何ができるでしょう』。元帥は説得されたように見えたが、まさにその瞬間、彼は軽騎兵がワーヴルに到着しプロイセン軍と交戦したこと、そして彼らの全軍がそこに集結しており、少なくとも8万人から成るとの情報を得た。このことから彼はワーヴルへの行軍を続け、午後4時にそこに到着した。彼の前にプロイセン全軍がいると信じていた彼は戦列を敷き配置をするため2時間を費やした。彼が[ワーテルローの]戦場から午前10時に送り出された士官からの伝言を受けたのはそれからだった」
p104-105
 
 言い回しが大げさになるなど違う点もあるが、要点は1818年の本と同じだ。これら2つの本は、当事者が書いたものではないため一次史料とはいえないが、様々な情報を集めうる立場の人間の証言として、かつ今後紹介する他の文献より古い時期に出たものとして、その中身は重視しておく必要があるだろう。
 さて、このナポレオンの証言に早速反論したのがグルーシーだ。彼はナポレオンのように島流しにはされていなかったものの、アメリカへ亡命中であり史料などを参照できない立場にあった。彼はObservations sur la relation de la campagne de 1815"http://books.google.co.jp/books?id=fNIdAQAAMAAJ"の中で「サラヴァレンを過ぎた後になってようやくワーテルローの砲声が我が軍にも聞こえた」(p80)と書いており、要点1の「砲声が聞こえた」点については異論を述べていない。だが、それ以降についてはかなり強く否定している。
 
「文章に書かれた命令が出ていないのだから、エクゼルマン将軍に私への命令を見せるのは不可能だ。そして4から5リュー離れた場所、ソワーニュ森の入り口で生じた全面的な戦闘の結果というよりも一部の交戦の効果と思われた砲撃の騒音へと向かうため、攻撃しかつ見失わないようにとの命令を受けていたプロイセン軍の追撃を諦めるか否かについて私が一瞬でも迷ったというのは間違いだ。何よりも、フルーリュス近くで発した砲声に足を止め、この方面に兵を向かわせ、それによって命令を文字通りに実行しなかったネイ元帥に対し、ナポレオンが厳しく非難を浴びせたことを、私がそんなに早々と忘れるだろうか? ジェラール将軍が口にした意見なるものについては、その時(正午頃)2リュー以上後方におり、ずっと後になってワーヴル前面でやっと私と合流したばかりの彼が、そんなことを私に言えただろうか? 私への命令がワーヴルへの行軍を指示していたのに私が前日にジャンブルーで止まったとジェラール将軍に言わせたのもばかげている。なぜならこれらの命令(グールゴー将軍のp75に記されている)にはそうした移動の指示がないばかりか、どのような形での示唆も含まれていないからだ」
p81
 
 要点3を否認し、要点4以降はそもそもジェラールがその場にいなかったと切って捨てている。ナポレオンの見解に真っ向から対立した形だが、これに噛み付いたのがジェラールだった。長くなったので以下次回。
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