アンリvsカール

 れいでぃーす&じぇんとるめーん。ここに夢の対決、ジョミニvsクラウゼヴィッツを開催します。軍事理論を専門にする者なら垂涎の組み合わせですが、単に両者の理論を並べて比較するのではありません。文字通り、両者が直接意見を戦わせた事例を紹介しましょう。ただし、おそらく日本語ではろくに語られたことのない戦いであります。何しろジョミニの意見は彼の書いたフランス語の原書に、クラウゼヴィッツもドイツ語の文献にのみ出てくるもので、どちらも英訳すら存在していない状況。日本にもクラウゼヴィッツやジョミニについて語る人間は大勢いますが、彼らもほぼ知らないであろうこの決戦、果たして勝負の行方はいかに。
 
 1799年のマニャーノ戦役のさなか、3月29日にフランス軍は今後の方針を巡る会議を開いた。それまで左翼側に重点があったフランス軍の配置を見直し、アディジェ下流での渡河を目指すべく右翼側へ戦力をシフトさせることが、この会議で決定された。具体的には左翼3個師団(セリュリエ、デルマ、グルニエ)のうちデルマ、グルニエの2個師団を右翼へ移動させ、右翼にいたモンリシャールは中央ヴェローナ前面にいるモロー麾下の2個師団(アトリ、ヴィクトール)と合流するように動いた。
 この移動に対して批判を浴びせたのがジョミニだ。彼はHistoire critique et militaire des guerres de la révolution, Tome Onzième."http://books.google.co.jp/books?id=IwM7AAAAcAAJ"の中で以下のように指摘している。
 
「この戦力の合流によりシェレールは4万人の戦闘員に対峙できた。だが機会の均衡を取り戻すには偉大なる指揮官のあらゆる才能を必要とした。フランスの将軍[シェレール]はその才を示すどころか、反対行軍を実行するための奇妙な計画を思いつき、時間の無駄も兵にもたらす疲労についても計算することなく、左翼の2個師団を中央の背後を通過させて最右翼へと持っていった」
p175
 
 左翼から右翼への部隊移動は時間無駄なうえに兵に疲労をもたらす愚作だ、というのがジョミニの意見である。そしてそのジョミニに対して真っ向から反対の意見を述べたのがクラウゼヴィッツ。西洋近代2大軍事理論家の正面衝突がここに演じられたのである。彼はHinterlassene werke des generals Carl von Clausewitz, Fünfter Band."http://books.google.co.jp/books?id=8L03AQAAIAAJ"で次のように記した。
 
「行軍の安全のためにシェレールが行った特別な準備について、ジョミニが指摘するような極めて拙い問題は見当たらない。この著者は、左翼から最も遠いレニャーゴ即ち右翼へ布陣させるべく、シェレールがまずデルマとグルニエ師団に行軍を命じた点について、その反対行軍を熱心に批判している。だがこの手法は極めて自然であり、そうすることでモローがその間彼の2個師団とともにヴェローナ正面を保持することができ、そしてこうした対応がクライの行軍に対する保証を示す唯一のものである」
p193
 
 敵の正面で側面移動を行うのだから、それを守る部隊は必要。モロー麾下の2個師団が中央にとどまったのは、むしろそうした予防措置をシェレールが講じていたことを示す証拠である、というのがクラウゼヴィッツの見方なのだ。さあて両者がっぷり四つに組んで互いに譲ろうとしないこの対決、果たして軍配はどちらに上がるのか。
 
 判定を下すためには、実際にこの当時、軍を率いて戦った経験のある人物の見解を参照するのがいいだろう。理論家ではなく実務家の声に耳を傾けてみるのだ。一人はグーヴィオン=サン=シール。1799年春にはドイツで戦っていた彼は、イタリアの戦場にいたわけではないが、同僚の戦いぶりが妥当だったかどうかの判断はできるだろう。Mémoires pour sevir à l'histoire militaire sous le directoire, le Consulat et l'Empire, Tome Premier."http://books.google.co.jp/books?id=IhKn5r4v2kgC"の中で、彼はシェレールの行動について以下のように述べている。
 
「3月30日、シェレールは左翼から引き抜いたデルマとグルニエの2個師団を最右翼に移動させた。この移動を敵から隠すため、彼は兵をモローが指揮する中央部隊の背後を通過させた」
p181
 
 淡々とした記述だ。問題があると見ればたとえ同僚であっても容赦なく毒舌を浴びせるグーヴィオン=サン=シールがここまで淡々と説明に徹しているってことは、シェレールの判断に問題がなかったと見ているためだと思われる。つまりクラウゼヴィッツと同じ評価だ。
 一方、ナポレオンはシェレールの行動について「アディジェ下流、河川と沼地と泥の中における全ての行軍と反対行軍は、軍を損ない完全に混乱させることだけがその特徴だった。アディジェを渡りたいフランスの将軍は、たとえばヴィラフランカのような乾いた土地にあるただ一点に兵を集結させ、奇襲渡河を行い、全力を傾けて橋へと向かうべきだ」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Trentième"http://books.google.co.jp/books?id=CvZBAAAAcAAJ" p265)と批判的。ただし、行軍そのものを批判していても、行軍のやり方が間違っているとは言っていない。ジョミニを応援しているわけではないようだ。
 シェレール自身の意見にも耳を傾けてみよう、と思って彼の書いた本を見ると「私はアディジェをヴェローナあるいはレニャーゴの下流で渡ることを決断した。5個師団に右翼へ向かうようにとの命令が出され、架橋部隊はカステラーラに送られた」"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/scherer.html"としか書かれておらず、具体的な行軍方法についての言及はなかった。彼の本は自らの行為を弁明するために書かれたものなのだが、言及すらしてないのはおそらく弁明の必要がないと思っていたからだろう。
 
 残念ながら彼ら以外の軍人でシェレールの行動を評価している人物は見つけられなかった。シェレールの行為を問題視していないのは本人とグーヴィオン=サン=シール、問題視しているのはナポレオンだが中身を見ると別にジョミニの指摘に賛同しているわけでもない。どうやらこの勝負、クラウゼヴィッツの判定勝ちといったところか。
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