「かくして9月21日はどのような視点から見ても、人間の歴史の新たな時代が始まった時であった」
(So wird der 21 September in jeder Hinsicht die Epoque wovon ein ganz neuer Theil der Menschen Geschichte beginnt)
ヴァルミーの砲撃戦が行われたのは20日であり、なぜコッタが「21日」と書いているのか理由は不明。だがその点を除けばこの発言はゲーテの言葉の前半部と極めてよく似通っている。Vossの指摘を紹介したSuratteauは「ゲーテの文章のスタイルがコッタのものより明らかに気取っているものの、2つの文章はほとんど同じだ」と指摘している。
Suratteauによるとコッタはシュトゥットガルトの印刷業者の息子であり、フランス革命の支持者として1791年にストラスブールへ亡命した。亡命者はフランスから外国へ行った連中だけではなかったのであろう。彼はそこでフランス軍に所属し、ケレルマン麾下としてヴァルミーで戦い、さらにキュスティーヌについてマインツへ行ったのだそうだ。1795年にフランスとプロイセンが講和した後はシュトゥットガルトに戻り兄弟とともに出版業を営んだ。実はゲーテの滞仏陣中記もコッタが出版している。
Vossは、コッタがこの文章を1792年12月には記していたのに対し、ゲーテが滞仏陣中記の概要を準備しているとほのめかしたのは1809年だと指摘している。そしてこの文章が、ゲーテのような保守派ではなく、明らかに革命主義者から生まれ出てきたものであることにも触れているという。確かにヴァルミーでのフランス軍の勝利を「新しい時代の始まり」と主張する人間は、普通に考えれば革命支持者であろう。
つまりゲーテのこの文章の前半部は、実はコッタの文章の剽窃である可能性が存在するのだ。Vossはそこまで言っていないようだが、Suratteauは「偉大な人物、天才ですらこうした弱さとは無縁でない」と指摘している。彼以外にも、たとえばLa volonté de comprendreという本のように、コッタの文章を紹介したうえで「ゲーテはほとんど同じ文章を繰り返した。30年後に」(p542)と書いているものがある。
文章の後半部がナポレオンの公報を、前半部がコッタの言葉をコピーしたのだとしたら、この文章に独自性などほとんどないことになる。ただ、ゲーテというブランドのおかげでこの文章が広く世に知られたこともまた事実。彼が「剽窃」しなければ、ナポレオンの方はともかくコッタの言葉はあっという間に忘れ去られていただろう。言っている中身より、「誰が言ったか」の方が、ミームを広めるうえでは重要だったのである。
今に伝わっているゲーテの言葉なるものはただのパクりかもしれない。しかしゲーテ自身がこの戦いについて何も言わなかった訳ではない。ヴァルミーの戦いから1週間後、9月27日付で彼が記したクネーベル宛の手紙に以下のような文言があるのだ。
「全てを私自身の目で見たことはうれしい限りであり、そしてこの重要な時について語られる際に、私はその僅かな部分にしか関わらなかったが、と言うことができるだろう」
(Es ist mir sehr lieb, dass ich das Alles mit Augen gesehen habe und dass ich, wenn von dieser wichtigen Epoche die Rede ist, sagen kann: et quorum pars minima fui)
最後の部分はウェルギリウス「アエネーイス」の一文「その大部分にわたしが関わっていたのだが」et quorum pars magna fui("
http://www.kitashirakawa.jp/taro/lit95.html"参照)を少し改変したもの。だから厳密にはこれもゲーテオリジナルとは言い切れないのだが、少なくとも一般に伝わっているパクりかもしれない言い回しよりは彼の独自性が出ている言葉と見ていいだろう。
しかしこの言葉がヴァルミーの砲撃戦のみについて言及したものとみなすのは難しい。そもそも手紙自体が砲撃戦の1週間後に書かれたものだし、手紙の中身でもヴェルダン陥落からアルゴンヌの森迂回、ヴァルミーへの着陣と砲撃戦、その後の1週間にわたる膠着状態と補給の欠乏に至るまで、個別の戦闘ではなく戦役全体について触れている。そのうえで「近いうちに決定があるでしょう。この状況から抜け出す方法は僅かしかありません」(p106)と言及しているが、これも砲撃戦のことではなく補給難を意味していることは明らかだ。つまり彼の言う「重要な時」wichtigen Epocheは、ヴァルミーの砲撃戦だけでなく戦役そのものを意味しているとみなした方がいいのである。
ゲーテが手紙の中で20日の砲撃戦について触れているのは「敵の姿を見た時、膨大な砲撃が20日に行われ、そして十分にそれを味わったため、以後は全てが静かになったまま既に7日が経過しました」(p106)という部分だけ。この砲撃戦が歴史を変えるものだと認識していたのなら、もっと詳細な経緯などを記していただろう。だがゲーテの記述はむしろ戦役後の補給難の方が詳しかったりする。つまり、彼の言う「重要な時」を、後の滞仏陣中記における「この地、この日」hier und heuteと同一視するのは難しいってことだ。
後知恵によって歴史の流れを知っていたゲーテが30年後に語った言葉は、だが実際に歴史の現場に居合わせた彼の脳裏に浮かんだものではなかった。そもそも彼は激しい砲撃を体験こそしたものの、それが歴史的にどのような意義を持つかについて当時はっきりとは認識していなかった可能性が高い。なのに彼の言葉はヴァルミーと結びついて今なお語られている。現場に居合わせた幸運、他人の言葉をうまく組み合わせて自分自身のプロモーションに活用した彼の自己宣伝能力の高さ、そうした要素が集まってこの言葉を歴史に刻み込んだのだろう。
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