祖国は危機にあり 関連blog
オランダ軍司令官オラニエ公
2012
/
09
/
24
ナポレオニック
承前。1793-94年戦役において、低地諸国で戦ったオランダ軍を率いた「オラニエ公」とは誰か。実はこの点についてはかなりいい加減な理解に基づく記述が見られる。
1つはwikipediaに載っているフルーリュスの戦い(1794年)の戦闘序列"
http://en.wikipedia.org/wiki/Fleurus_1794_Order_of_Battle
"。連合軍の第1縦隊を見ると「オラニエ公ウィレム5世」と書かれており、そのリンク先は最後のネーデルランド連邦共和国総督であり1806年に死去したウィレム5世"
http://en.wikipedia.org/wiki/William_V,_Prince_of_Orange
"のところにつながっている。
この戦闘序列のソースとして示されているのはDigby SmithのNapoleonic Wars Data Bookだ。だが実際に同書を見ると、そこに書かれているのはあくまで「オラニエ公ウィリアム」(p86)だけであり、どこにも「5世」の文字はない。このオラニエ公がウィレム5世であると考えたのは、どうやらwikipedia編集者の独断だと思われる。
もう1つ、別の指摘もある。このオラニエ公はウィレム5世の次男、ウィレム=ヘオルヘ=フレデリック(1799年に死んだ人物)であるというものだ。Napoleon Seriesに載っているオーストリア軍の将軍たちに関するbiographyでは、ウィレム=ヘオルヘ=フレデリックは1793年から94年にかけて低地諸国やフランス北部で戦ったオランダ軍や連合軍の指揮官だと記されている"
http://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsO.html#O21
"。一方、彼の兄であるウィレム=フレデリック(後のオランダ王ウィレム1世)の方を見ると、そうした記録は書かれていない。
だが、これもソースに当たるとおかしな部分が出てくる。真っ先に出てくるソースはBodartのMilitär-historisches Kreigs-lexikon"
http://archive.org/details/militrhistorisc00bodagoog
"なのだが、そこに出てくる連合軍側指揮官の名前は全てErbprinz von Oranien、つまり「オラニエ公の世継ぎ」となっている。ウィレム=ヘオルヘ=フレデリックは次男であり、長男のウィレム=フレデリックがいる以上、彼は世継ぎではない。
インターネットには父親説、弟説が出ているが、他の史料を見る限りこの「オラニエ公」は兄、つまりウィレム=フレデリックだと考えた方が辻褄が合う。Bodartの本もそうだし、Digby Smithが参考文献としているDupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794"
http://archive.org/details/lesoprationsmil00histgoog
"を見ると、フルーリュスで指揮官になったのは「オラニエ公の世継ぎ」(p200)と書かれており、やはりウィレム=フレデリックを示している。
同時代の史料を見ても、オランダ軍全体を指揮する立場にあったのがウィレム=フレデリックであることを示すものがいくらでも出てくる。1794年4月22日の戦いに関するヨーク公の手紙の中には「オラニエ公の世継ぎ」の文字が出てくる("
http://books.google.co.jp/books?id=xbsNAQAAMAAJ
" Landrecy)し、やはりヨーク公の1793年8月29日の手紙にも同じ文言がある(同Lincelles)。他にもヨーク公の手紙の中には何度も「世継ぎ」Hereditaryの文字が現れる。
オラニエ公自体が本国宛に書いている報告書を見ても、署名にはW.F.とかウィレム=フレデリックと書かれており、彼の名前がウィレム=フレデリックであったことを窺わせる("
http://books.google.co.jp/books?id=0P0RZtJEXgUC
" p92, p527)。一方、同じ本の中で彼の弟はオラニエ公フレデリックと書かれており(p92, p197)、「世継ぎ」と書かれている兄とは別の表記になっている。そしてオラニエ公の報告書の中には「私の兄弟」の行動についての報告がいくつか書かれており(p92, p543)、弟ウィレム=ヘオルヘ=フレデリックが兄の指揮下で動いていたことが分かる。
1793-94年戦役に参加したカルヴァートの日記や手紙をまとめた本"
http://books.google.co.jp/books?id=ME5NAAAAcAAJ
"にはさらに決定的な記述もあり、そこでは「オラニエ公の世継ぎ(中略)にオランダ国境の防衛は委ねられた」(p24)との文言がしっかり書かれている。そしてカルヴァートも弟の方は「オラニエ公フレデリック」(p26)と記しており、兄とは別の表記である。カルヴァートは兄に対しては「ずっとヨットで過ごし滅多に海岸に現れなかった」(p28)と批判的だが、弟については「オーストリア軍がオラニエ公フレデリックの行為を称賛していた」(p134)とほめている。
同時代史料だけでなく、19世紀の伝記類を見ても1793-94年にオランダ軍を指揮した人物がウィレム=フレデリックであることはあちこちに記されている。"
http://books.google.co.jp/books?id=h5dQAAAAYAAJ
"のp1229、"
http://books.google.co.jp/books?id=xfIMAAAAYAAJ
"のp573、"
http://books.google.co.jp/books?id=8Eo7AQAAIAAJ
"のp1274、"
http://books.google.co.jp/books?id=EshPAAAAMAAJ
"のp728など、様々な本でオランダ軍の指揮官がウィレム=フレデリックであると書いている。
以上、「オラニエ公」なる人物が具体的に誰であるかについて、必ずしも正確に伝わっていないケースがあることを示した。とはいえオラニエ公なんて候補者は数人しかいないのだからまだ楽な方。ロシア軍のように同姓の軍人が大勢いて、あまりに多すぎるからローマ数字で区別していたなどという事例になると、よほど腰をすえて調べないと正確なことが分からない可能性がある。少なくとも、同じ名前だからと言って安易に同一人物だと思い込むのは拙いだろう。
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コメント
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DSSSM(松浦豊)
おおお~、この件知りたかったんですよ! また時間がある時にじっくり読んで、保存もさせてもらおうと思います(^_^;
2013/01/21
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2013/01/21 URL 編集