まず簡単な1815年戦役から。英蘭連合軍の第1軍団の指揮官がしばしば「オラニエ公」の名で呼ばれているが、彼がウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイク(後のウィレム2世)であることは間違いない。ワーテルロー会戦直後に出版されたThe battle of Waterloo"http://books.google.co.jp/books?id=l2oUAAAAQAAJ"の中には第1軍団所属の第3師団指揮官であるアルテンの報告書が掲載されているが、そこには「私の師団がその指揮下にあるオラニエ公の世継ぎ(Hereditary Prince of Orange)」(p164)という文言があり、第1軍団長が時のオランダ王(ウィレム1世)の皇太子であったことを示している。同じくスペイン軍所属のアラヴァ将軍の報告書にも、ウェリントンが16日にキャトル=ブラに到着した時に「オラニエ公の世継ぎを見つけた」(p188)と書かれている。 この「オラニエ公」は父親であるウィレム1世でも、弟であるウィレム=フレデリック=カレルでもない。「オラニエ公」の出した報告書が「オランダ国王宛」(p170)となっていること、そして弟についてはウェリントンがオラニエ公ではなく「ネーデルランドのフレデリック公」(p201)と呼んでいることが証拠だ。ちなみにウェリントンは第1軍団司令官については「オラニエ公」と呼んでいる例が複数あり(p157, 158, 161)、「フレデリック公」と「オラニエ公」を区別していることは明白である。 ってもっともらしく言うまでもなく、ワーテルロー戦役の「オラニエ公」がオランダ国王の若い皇太子であることは広く知られている。問題はこの「オラニエ公」はワーテルロー戦役時点で22歳に過ぎなかったこと。だが、それより前の時期にも「オラニエ公」という名の指揮官が出てくる戦役はある。年齢的に考えて、そのオラニエ公はウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイクではあり得ない。では誰だったのか。
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