オラニエ、who?

 フランス革命からナポレオン戦争の時代を見ると、連合軍の指揮官にしばしば「オラニエ公」の名が出てくる。おそらく軍人としての実績ではなく、革命前のネーデルランド連邦共和国総督を務めていた家柄という理由で選ばれたのだろう。そういう指揮官はオラニエ公以外にもいるので特にオラニエだけを問題にするつもりはない。問題にしたいのは、この「オラニエ公」とは具体的に誰なのか、という点だ。

 革命戦争が始まったのは1792年、ナポレオン戦争の終結は1815年。四半世紀近くに及ぶ戦争の期間、ずっと同じ人間が「オラニエ公」であった訳ではない。まず革命勃発時点でオラニエ公の地位に就いていたのはウィレム5世"http://en.wikipedia.org/wiki/William_V,_Prince_of_Orange"だ。1748年生まれの彼は3歳の時に父親であったウィレム4世をなくしており、それからしばらく摂政制が続いた後で1766年に総督"http://en.wikipedia.org/wiki/Stadtholder"となった。フランス革命はその23年後に起きている。
 革命戦争が始まった時に彼には2人の息子がいた。長男ウィレム=フレデリック"http://en.wikipedia.org/wiki/William_I_of_the_Netherlands"は1772年生まれ。ナポレオンより3年後の誕生だ。次男は2歳年下のウィレム=ヘオルヘ=フレデリック"http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Frederick_of_Orange-Nassau"である。彼らも革命戦争期には従軍できるだけの年齢になっていた。
 このうち長男のウィレム=フレデリックはナポレオンの没落後にオランダ国王ウィレム1世となった。彼にも複数の息子がいたが、最も重要なのは長男で後に王位を継いだウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイク、後のウィレム2世"http://en.wikipedia.org/wiki/William_II_of_the_Netherlands"だ。さらに次男のウィレム=フレデリック=カレル"http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Frederick_of_the_Netherlands"も僅かながらナポレオン戦争に名を残している。似たような名前が続いて分かりにくいこと夥しいが、文句はオラニエ王家に言ってほしい。
 以上の面々を念頭に、フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけて登場する「オラニエ公」の正体を探ってみよう。

 まず簡単な1815年戦役から。英蘭連合軍の第1軍団の指揮官がしばしば「オラニエ公」の名で呼ばれているが、彼がウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイク(後のウィレム2世)であることは間違いない。ワーテルロー会戦直後に出版されたThe battle of Waterloo"http://books.google.co.jp/books?id=l2oUAAAAQAAJ"の中には第1軍団所属の第3師団指揮官であるアルテンの報告書が掲載されているが、そこには「私の師団がその指揮下にあるオラニエ公の世継ぎ(Hereditary Prince of Orange)」(p164)という文言があり、第1軍団長が時のオランダ王(ウィレム1世)の皇太子であったことを示している。同じくスペイン軍所属のアラヴァ将軍の報告書にも、ウェリントンが16日にキャトル=ブラに到着した時に「オラニエ公の世継ぎを見つけた」(p188)と書かれている。
 この「オラニエ公」は父親であるウィレム1世でも、弟であるウィレム=フレデリック=カレルでもない。「オラニエ公」の出した報告書が「オランダ国王宛」(p170)となっていること、そして弟についてはウェリントンがオラニエ公ではなく「ネーデルランドのフレデリック公」(p201)と呼んでいることが証拠だ。ちなみにウェリントンは第1軍団司令官については「オラニエ公」と呼んでいる例が複数あり(p157, 158, 161)、「フレデリック公」と「オラニエ公」を区別していることは明白である。
 ってもっともらしく言うまでもなく、ワーテルロー戦役の「オラニエ公」がオランダ国王の若い皇太子であることは広く知られている。問題はこの「オラニエ公」はワーテルロー戦役時点で22歳に過ぎなかったこと。だが、それより前の時期にも「オラニエ公」という名の指揮官が出てくる戦役はある。年齢的に考えて、そのオラニエ公はウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイクではあり得ない。では誰だったのか。

 ワーテルロー戦役前にオラニエの名が出てきた例としては、1806年戦役がある。アウエルシュテットで戦ったプロイセン軍の中にオラニエ公が指揮していた師団が存在していた。ただ、こちらの方は1815年戦役よりも簡単に誰であるかを確定できる。まだ10代前半に過ぎなかった後の「オラニエ公」ことウィレム=フレデリック=ヘオルヘ=ローデウェイクは対象外だ。その祖父に当たるウィレム5世はアウエルシュテットの半年前、1806年4月9日に死去しており("http://books.google.co.jp/books?id=A9l3ij3VLqkC" p11)、こちらも違う。ウィレム5世の次男ウィレム=ヘオルヘ=フレデリックに至っては父親より前の1799年に死去("http://books.google.co.jp/books?id=rl1SAAAAcAAJ" p52)している有様だ。
 つまり、1815年にはオランダ国王ウィレム1世となっていたウィレム=フレデリック以外に、この「オラニエ公」になりうる人物はいないのである。父親が1806年戦役でナポレオン相手に敗れ、その息子が1815年に彼と戦ったという点では、有名なブラウンシュヴァイク公だけでなくオラニエ公も実は同じだったわけである。

 さらに遡ると1799年戦役が始まる前にオーストリア軍のイタリア方面軍司令官に「オラニエ公」が赴任していた。このオラニエ公は実はウィレム=ヘオルヘ=フレデリックである("http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=rl1SAAAAcAAJ" p50, 55など参照)。そのままならイタリアで最初にシェレールと戦っていたのは彼だっただろう。だが、彼の急死("http://books.google.co.jp/books?id=IwM7AAAAcAAJ"のp152、"http://books.google.co.jp/books?id=kKsSAAAAYAAJ"のp32-33)によって状況が変わった。
 この「オラニエ公」が1799年に死んだこと("http://books.google.co.jp/books?id=H64SAAAAYAAJ"のp104、"http://books.google.co.jp/books?id=SmkLAAAAYAAJ"のp194参照)を踏まえるなら、彼はウィレム=ヘオルヘ=フレデリックしかあり得ない。彼の父も兄も1799年時点では死んでいないし、他にオラニエ家でこの時期に死んだものがいない以上、結論は明白だ。

 と、ここまでは問題ない。重要なのはこの先だ。「オラニエ公」が登場するのはさらに前の時期もある。1793年から94年にかけての戦役において、オラニエ公は低地諸国で戦っているオランダ軍の指揮官として活動している。さて、この「オラニエ公」は一体誰なのだろうか。長くなったのでそれについては次回。
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