文明と戦争

 アザー・ガットの「文明と戦争」読了。戦争というか暴力についてこういう視点で分析した本はおそらく過去にもあったが、これだけ網羅的に書いたものは珍しいだろう。その意味で読み応えがある本だった。ただ翻訳が堅苦しいのと、一部ではあったが変な翻訳があったところが残念。中でも酷いのは「リチャード・ドーキンスの刺激的な表現では『メメス(memes)』」(上、p214)という部分だ。先行する翻訳でミームという表現を使っているのだし、元々英語のgene(ジーン、遺伝子)にかけた造語なんだから日本語でもミームと書いておいた方がいいと思う。この章を翻訳した人(監訳者の1人でもある)は軍事理論専門家だが、どうやら進化論関連では完全な素人の模様。専門家に助言を仰ぐとか、いやもっとシンプルにドーキンスのwikipediaを見るくらいの手間をかければ、ミームという日本語を見つけられただろうに。
 それはともかく、ガットの本は要するに進化論をベースに歴史上の戦争について分析したものだ。その際にガットは人類の歴史を大きく3つのフェーズに分けている。狩猟採集時代と、農耕文明以降、そして火薬の導入に代表される「近代」だ。通常、こうした長期の歴史について言及する場合、3番目のフェーズは産業革命以降になることが多いんだが、火薬ってのも人間や動物以外のエネルギーを活用している点で産業革命と共通項があると考えれば、戦争において火薬を一つの画期とみなすのもアリだろう。
 3つのフェーズに分割しているものの、戦争や暴力をもたらす根本的な動力については変わらないというのがガットの考えだ。進化論的な行動原理、包括適応度の向上こそが暴力や戦争の根っこにある要因だという点では昔も今も同じ。ただ昔に比べて今の方が複雑度は増しており、進化論的なベースの上に載っている他の様々な要因が戦争に大きな影響を及ぼしている。網羅的に書いているためやたらと長い本になっているが、話としてはシンプルな議論になっている。
 包括適応度向上のための争いが最も露骨に繰り広げられるのが狩猟採集時代だ。ガットはこの時代が暴力に満ちたものであったことを、文化人類学や考古学、動物行動学といった各種学問の成果から導き出している。そうした世界では成年男子の暴力による死亡率は高い場合で25%以上に達した。人間の自然状態はルソーの思い描いたようなものではなく、ホッブズの記す「万人の万人に対する闘争」に近かったというのが彼の指摘だ。
 争いが包括適応度の向上につながるのは、適応度を高めるための資源に限りがあったため。食糧や配偶相手(哺乳類の場合は主にメス)という限られた資源を手に入れるためには暴力も有効な手段だったのである。その意味ではヒトも他の動物もあまり変わらない。ホモ・サピエンスならではの独自性があるとしたら、道具を使って奇襲することで成人したオス相手に致命的なダメージを与えやすくなったという点。牙や爪など自前の武器だけで戦う動物なら、成獣同士の争いは勝者にも大きなダメージを与える可能性が高いために半分儀礼的なものになるのだが、ヒトの場合は奇襲に成功すれば一方的に大人の相手を殺すこともできる。
 そのため狩猟採集社会の戦争で中心となるのは、少人数での待ち伏せや夜討ち朝駆けといった奇襲だったらしい。奇襲が失敗すればその時点で攻撃自体が中断されるケースが多いという。正面からにらみ合った戦闘もあることはあるが、威嚇や遠距離からの攻撃などが中心で死傷率は奇襲に比べて低い。効果の高い奇襲と、儀礼的な大規模戦の組み合わせが狩猟採集社会の「戦争」である。となると、自らを守るうえで最も効果的なのはいかに奇襲を防ぐかという点に絞られる。
 奇襲を防ぐ最良の方法は集まって協力することだ。最近では農業より前に定住が始まったとの説が強まっているが、集まって協力しあうことが可能な定住は、もしかしたら戦争に備えた対応策だったのかもしれない。最古の家畜動物であり農業より前に家畜化されたイヌについても、その目的は警報装置としての機能(不審者に気づくと夜であっても吠える)だったとの説もある。
 寄り集まるなら血縁集団が一番適当だろう。包括適応度の向上という点でもそれが理屈に合う。ガットはヒトの社会は昔から血縁の深さによる同心円状の関係が存在しており、それに基づいた「民族」やネーションといったものが古くからあったと主張している。ネーションは決して近代の発明ではなく、実体を伴う歴史的存在だとの考えだ。ネーションの境界を厳密に規定しようとすると曖昧さが残るが、かといってネーション自体が純粋な「幻想」というのは間違っている、という発想なのかもしれない。
 
 次に農耕社会だ。農業の発明と発達は何より生産能力の増加につながり、希少であった資源を増やす効果を持っていた。だがそれによって資源を巡る争いが緩和されることにはならなかった。なぜなら資源が増えた分だけ人口も増えてしまったからだ。このあたりは資源の増加ペースと人口の増加ペースにあまり違いがなかった点も影響しているのだろう。この「マルサス的な罠」のため、ヒトは相も変わらず資源を巡る争いを繰り広げることになった。
 狩猟採集社会的な奇襲は、ヒトの集まりが巨大化したことによって難しくなった。正面からのぶつかり合いが中心になるとそれは暴力による死傷率を下げることにつながる。加えてヒトが集まって社会や権力を構成するようになると、こんどは共同体内での暴力も減らす効果がもたらされた。広範囲を支配する権力になるほどその内部はより平和になり、全体としての暴力による死亡率は下がっていった。農耕文明は暴力の影響を減らしたわけだ。
 とはいえ資源が(人口に比して)希少なままだったのは事実。その希少な資源をどう割り振るかの問題は社会的、政治的なものだったが、それは戦争の形態にも大きな影響を及ぼした。希少資源が一部の権力者に集中される場合、戦争においても少数精鋭になる傾向が見られたという。資源の割り当てに与れない者たち(農奴など)は、自分たちの社会を守るインセンティブが乏しく、戦争に借り出されても士気は低かった。逆に資源が割合平等に割り当てられている場合、多くの市民が戦闘に参加した。
 都市国家のように規模が小さいところでは後者のパターンが多く、そのため市民兵が実現していた。だがより巨大な国家になると農業社会における平等な体制には限界があったようで、より中央集権的な政治体制が一般的になった。また、ユーラシアにおいては少数の権力者であっても効果的に国を支配し、他国と争える「武装」があった。馬だ。最初は戦車という形で、後には騎馬兵という形で戦場に登場してきた馬匹は、エリートと結びつくことによって少数精鋭の軍隊を実現するのに役立ったようだ。
 ただし騎馬兵は無敵だったわけではない。ガットは歴史上のどの時代をとっても、歩兵が騎兵に対抗することは可能だったとしている。歩兵に十分な数があり、さらに騎兵の襲撃を前にしても踏みとどまれるだけの士気があれば、歩兵は常に騎兵を打ち破れた。しかし、そうした歩兵をそろえるだけの社会的条件が整っていなければ、少数の騎兵が戦場を支配することもあり得た。戦争はあくまで社会的、政治的な背景のうえで行われたのであり、そうした背景と無縁の理屈で動いていたわけではない。
 ガットは農耕社会における国家が小規模なものから大規模なものへ、単純なものから複雑なものへと変化していく前提で分析している。この変化は不可逆なものではなく、ローマ帝国崩壊後の西欧のように逆行することもあった。このあたりはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51262720.html"で紹介した論文を思わせる記述であり、なかなか面白い部分。できればNature論文のように国家の変化についてより精緻な分析をしてもらうとさらに面白かったと思うが、本論とは外れてしまいそうだ。
 
 近代以降になると主役に西洋が躍り出る。その理由は火薬だけでなく、近代3大発明の残る2つ、つまり羅針盤と活版印刷が重要な役目を果たしていたというのがガットの指摘だ。火薬だけならヨーロッパ以外にオスマンもムガールも中国の王朝も取り入れていた。経済活動を支える羅針盤、そしてエリートだけでなく大勢の人間を動員するための道具になりうる活版印刷が組み合わさり、国力を最も効率よく動員できる国家を作り上げた。そうした国家がその力を戦争に投入することで軍事革命がなされた。
 それでも持続的に動員できる兵力は人口の1%が上限だとガットは指摘する。西洋列強の戦力が増えていったのは人口が増えたから。そして人口増を支えたのは、近代の前半はともかく後半は産業革命だ。そして産業革命は、ヒトの戦争に対する態度まで変えているのではないか、というのがガットの指摘である。戦争の根本的原因となっていた「資源の不足」という枷から、ヒトが解き放たれた可能性があるというのだ。
 それに伴って発生したのが、19世紀以降の戦争の減少。それまで四六時中戦争をしていた西洋列強は、ナポレオン戦争後はクリミア戦争まで相互に戦うことはなく、また普仏戦争から第一次大戦までの間も長い相互平和の時期が続いた。そして第二次大戦以降、冷戦はあったものの先進国同士が直接戦う戦争はなかった。戦争のデメリットが大きくなったというより、平和のメリットが大きすぎたことが理由だとガットは説明する。
 狩猟採集社会でも農業社会でも、国家間の関係はゼロサムあるいはマイナスサムゲームだった。戦争をしたからといってプラスになる保証はないが、何もしなくてもプラスはないかマイナスに陥る可能性がある。ならば戦争をして確率が低くてもプラスを目指す方が合理的と思われていた。だが産業革命以降、平和な状態で交易や取引を行えば大きくプラスが出るようになった。争わずともプラスが得られるのなら、敢えて争う必要はない。それが先進国間の平和につながったというのがガットの見立てだ。
 
 以上、読んだことと自分が考えたことを大雑把に書き出してみた。歴史上の個別の戦争について見るうえで、一つの枠組みとして使えそうな論考だ。そして、ガットの指摘が正しいのなら、ヒトの将来にとって大きな影響を及ぼすのはピークオイル論に代表される資源の枯渇問題だろう。たとえばこちら"http://agora-web.jp/archives/1485974.html"に載っている、1972年の「成長の限界」で示された予想がこれまでは当たっているという話とか、こちら"http://www.nexyzbb.ne.jp/~omnika/index.html"で指摘されている、ピークオイルは既に過ぎ人口一人当たりのエネルギーも今がピークといった話を見ると、その懸念は意外と深刻な影響を及ぼすのかもしれない。
 19世紀以降、ヒトはマルサスの罠を脱したように見えた。しかしそれは単に人口増より資源増のペースが速かっただけであり、ガットの理屈が成り立つのならば、資源増が止まることで再び希少資源を巡る暴力が増える可能性は十分にある。だとすると資源に関する悲観的予想が当たることで、再び産業革命以前のようなゼロサムあるいはマイナスサムの、戦争が当たり前という時代が来てしまうのかもしれない。そんな時代は、少なくとも私が生きている間は来ないことを願っているが。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック