皇帝と猫

 ナポレオンが猫嫌いだったという話がある。たとえばこちら"http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/114668/111590/55148989"とかこちら"http://www.geocities.jp/asamayamanobore/toribia/1851-1900.html"の1889などがその例だ。ただ、この文章はナポレオンの経歴を知っている人間なら読んだだけで変だと分かる。「連隊長時代に壁に飾ったタペストリーの裏側に隠れていた猫を連隊旗で串刺しにして殺した」とあるのだが、ナポレオンはトゥーロン攻囲で大隊長(chef de bataillon)から一足飛びに准将(général de brigade)に昇進しており、連隊長(chef de brigade)を経験していない。
 実はこの文章、元ネタとは違う話になっている。そもそも海外で語られていたエピソード、たとえば1922年に書かれた本"http://www.bartleby.com/234/3.html"によれば、この出来事があったのは「ヴァグラムの戦いとフランス軍による2度目のウィーン占拠から間もない時期」であり、シェーンブリュン宮殿でタペストリーの裏側にいる猫を「剣で」突き刺しているのをコルシカ人の副官に目撃されたとなっている。日本語になる過程で誰かが話を捻じ曲げたのだろう。
 問題はこの英語の逸話が事実かどうか。調べた範囲で見つかった最も古い文献は1852年1月に出版された新聞をまとめたこちら"http://books.google.co.jp/books?id=T35TAAAAYAAJ"の本。p28-29には上に紹介したのとほぼ同じ話が載っている。しかしこれより古い文献、特にフランス語の文献は全く見つけられなかった。フランス語でナポレオンの猫嫌いに言及した本としては1922年出版のこちら"http://archive.org/details/questionsneurol00wilsgoog"(p425)があり、脚注には1894年出版の本"http://www2.biusante.parisdescartes.fr/livanc/?cote=51375&do=livre"が参考文献としてあがっているものの、この本の索引(p201)を見る限りナポレオンの名はない。
 つまり、どこまで遡っても一次史料にたどり着けないのだ。Carl Van Vechtenはアブランテス公爵夫人の名前を出しているので、てっきり彼女の回想録に猫嫌いの話があるのかと思ってさがしたが、それらしい記述はゼロ。ヴァグラムの戦いの前後で猫に言及していた様子はない。ナポレオンが猫嫌いであったことを裏付ける明白な証拠が見当たらず、最も古いもので40年以上後に英語で書かれたものしか見つかっていない現状では、この逸話は史実ではないと考えた方が安全だろう。
 
 面白いことに、猫に対するナポレオンの態度として、全く逆の話もネット上で見つかる。こちら"http://23cats.brownbear.com.au/historic.html"によればナポレオンはセント=ヘレナで「サンボ」と名づけた犬、金魚や子羊に加え、「ベンと呼んでいた野良猫を飼っていた」という。こちら"http://www.squidoo.com/quiz-napoleon-bonaparte-man-and-myth"によればベンという名はナポレオンが深く尊敬し、若い士官だったころに彼に忠告の手紙を書いてきた米国の将軍に由来するのだという。
 うん、実に胡散臭い説明だ。そもそも何で米国の将軍が若い頃の(つまり全くの無名であった)フランスの一砲兵士官にわざわざ手紙などを送ってよこしたのか。そのあたりの説明なりソースなりが示されなければとても信じるわけにはいかない。おまけに困ったことに、この話はインターネットでしか見つからなかった。つまりgoogle bookではいくら検索をかけても出てこなかったのだ。出版されたことのない、ネットのみで出回っている「200年前の逸話」の信頼度は、果たしてどの程度あるんだろうか。
 同じナポレオンのペットに関する話のうち、犬のサンボは少なくとも1961年出版の本"http://books.google.co.jp/books?id=E44OAQAAMAAJ"に登場している(p275)。ネットにしか出てこない猫のベンよりは由来が古く、それだけ信頼度は上とも言えるが、一次史料に行き着けない点では五十歩百歩。最初に述べた猫嫌いの話も含めて、ソース不明の与太話がこれだけ出回っているのはあきれるしかない。上記全ての文章の著者に言いたい。歴史上の薀蓄を語りたいのならソースを示してくれ。ネタ元を探すのは結構大変なんだから。
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