プフェダースハイムのクレアファイト元帥軍の司令部、1795年11月12日 閣下、 クレアファイト元帥がゲンスハイムでライン河に2つの橋を架け、ヴルムザー将軍から増援を受け取った後で、ヴォルムスの少し下流でライン河に注いでいるプフリム川の背後の高地に宿営しているピシュグリュ将軍の軍を攻撃するため、今月10日に行軍したことを謹んでお知らせします。同時にヴァルテンスレーベン将軍もキルヒハイムの敵陣地を攻撃するためアルツァイから行軍しました。 オーストリア軍の接近によりピシュグリュ将軍は彼の極めて優位な陣地を去り、フランケンタールとトゥルクハイムへ向け退却しました。オーストリア軍は後衛部隊を本格的な戦闘に巻き込むのに間に合うよう到着することはできませんでしたが、大砲3門、何人かの捕虜を奪い、かなりの数を死傷させました。 クレアファイト元帥は主力軍とともに同日夕、プフリム近くに宿営しました。ヴァルテンスレーベン将軍はキルヒハイムにいました。 11日、元帥はプフリムを渡河し、ヴォルムスからマンハイムへ至る道の右側に宿営しました。敵は夜の間にヴォルムスを撤収し、軍が陣地を占拠している間にド=ラ=トゥール将軍が呼びの一部とともに敵をフランケンタールから追い払いました。彼は大砲3門と100人以上の捕虜を奪い、敵はこの日に200人以上の死傷者を出しました。前哨線はマンハイム、トゥルクハイム、及びカイザースラウテルン方面へと押し出しました。 本日はこの方面では何らかの結果を出すような移動は行われていません。 ジュールダン将軍の軍の一部がクロイツナッハとビンゲンにある陣地の前に現れたため、ヴァルテンスレーベン将軍は11日にアルツァイへ戻りました。そして本日、彼は全部隊をこれら2地点間に宿営させています。 オーストリア軍は10日と11日に約250人を失いました。 10日夜、マンハイムで規則どおりに[攻囲用の]塹壕が掘られました。 敬具 C・クロファード グレンヴィル卿殿 A collection of state papers, Vol. III. Part II."http://books.google.co.jp/books?id=6RctAAAAYAAJ" London Gazette p50-51
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