スールトとかルクレールとか

 最近サボり気味なんだが、一応ナポレオン漫画についていくつか。
 まずはスタール夫人。彼女についてナポレオンが「フランスにおいてよりもその放浪中により多くの余の敵を作ってしまった」と発言したって話だが、そのものずばりの文章は見つけられなかった。最も近いと思われるのは以下の文言。
 
「スタール夫人が追放されている間、コッペにある彼女の家は私[ナポレオン]に対する本当の武器庫となっていた。私の敵を生み出すだけに飽き足らず、彼女は自身、私と戦った。彼女はアルミダであり、同時にクロリンダでもあった[いずれも叙事詩『解放されたエルサレム』の登場人物]」
Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième."http://books.google.co.jp/books?id=sPHie2WSJmsC" p78
 
 次にパン屋スールトについて。スールトがパン屋になろうとした話は、たとえばこちら"http://www.virtualarc.com/officers/soult/"やこちら"http://www.answers.com/topic/nicolas-jean-de-dieu-soult"などの英語サイト、さらにはこちら"http://cavaliers.blindes.free.fr/profils/soult.html"のようなフランス語サイトにも言及されている。
 だが、彼が記して息子が出版したの回想録、Mémoires du maréchal-général Soult, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=HzjK2nApMZ0C"にはパン屋がらみの話は出てこない(p3)。父親の死をきっかけに軍に入った彼は、軍にとどまったまま革命を迎えたことになっている。
 おそらく元ネタになったのは回想録ではなく、Anacharsis Combesが記したHistoire anecdotique de Jean-de-Dieu Soult"http://books.google.co.jp/books?id=rLJOAQAAIAAJ"だ。軍に入った2年後の1787年、「[生まれ故郷の]サン=タマンに戻って母と会った彼は、軍を離れたいとの望みを告げ、母の近くでパン屋を開きたいとの計画を伝えた」(p16)と、そこには記されている。
 Combesがどのような一次史料に基づいて主張しているのかが分かればありがたいのだが、そこまでは判明していない。いずれにせよスールトの計画は周囲の反対で挫折した"http://www.napoleon.org/fr/salle_lecture/biographies/files/marechalsoult_ducdedalmatie.asp"そうで、既に伍長になっていた彼は軍に戻ることになる。結果はそれが大成功。革命を機に彼は1791年に軍曹、92年には少尉と一気に昇進し、最終的には歴史に名を残すことになった。
 
 そしてルクレール。トゥーロンやイタリアで頑張っていたが、最近はすっかり影が薄くなっていた。最後に一応見せ場は用意してもらったものの、サン=ジュストのように史実を無視して生き延びられるほど強運ではなかったようで。というかこの漫画はどちらかというと史実より前に死ぬことの方が多いので、きちんと史実の時期まで生き延びただけでも立派なものか。セント=ヘレナのナポレオンはこの義弟について以下のように述べている。
 
「ルクレールは第一級の功績がある士官で、事務仕事でも戦場での機動においても同様に有能だった。彼は1796年及び1797年戦役にナポレオンの参謀副官として、1799年戦役ではモロー麾下の師団長として仕えた。彼はフライシンゲンの戦いを指揮し、フェルディナント大公を破った。ポルトガルに対抗して活動する意図で2万人の監視軍をスペインへと率いた。最後にサン=ドマングへの遠征において、彼は偉大な才能と活動力を示した。3ヶ月もしないうちに彼は、英国部隊への勝利によって名を挙げた黒人軍を打ち負かし服従させた」
Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=lMBVuQqFAyoC" p202
 
 ランヌやドゼーの評価がそうであるように、相変わらず早く死んだ部下に対する彼の評価は優しい。おまけに身内でもあったのだから、このくらいの発言は当然とも言えるかもしれない。しかし手放しで評価しているわけでもなく、この後にはルクレールに対する苦言が続く。
 
「ルクレールが彼[ナポレオン]の秘密命令の精神をきちんと実行していれば、多くの災厄を防ぎ多くの悩みと無縁でいられただろう。この命令で彼は有色人種に多大な信頼を置き、彼らを白人と等しい存在として扱い、有色人種の男性と白人女性の、及び有色人種の女性と白人男性の結婚を推進する一方で、黒人のリーダーたちに対しては全く逆の政策を追求するよう命じられていた。(中略)だがルクレールはムラート[白人と黒人の混血]に対する偏見を持たされ、彼らを黒人よりもさらに憎んでいたクレオール[植民地生まれの白人]たちの嫌悪感を共有した」
p203-204
 
 遠隔地にいる部下の政治的対応を批判するのは、東方軍を率いたクレベールのムスリム対策について言及した時と同じである。軍人としての評価が高くても政治的な能力までは評価できないと思われていた点では、クレベールとルクレールは似ていたのかもしれない。
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