1796年。後の歴史書においてはボナパルト将軍の第一次イタリア遠征が行われた年として認識され、彼が率いるイタリア方面軍の戦いぶりが色々と紹介されることになる。だが、現実にこの年、同時代人が注目していたのは二次的戦線に過ぎないイタリアではなく、フランス軍とオーストリア軍主力がぶつかるドイツ方面だった。そこで勝利をつかんだのがオーストリアのカール大公だ。
皇帝の弟で若きボナパルト将軍よりさらに2歳年下だった彼は戦力で劣るオーストリア軍を率いながらフランスの将軍ジュールダンとモローを相手に巧妙に立ち回り、ドイツへ侵攻してきたフランス軍を撃退するのに成功した。成功の要因は分断と各個撃破。モローのラン=エ=モーゼル軍を少ない兵力で牽制しながらジュールダンのサンブル=エ=ムーズ軍に兵力を集中したのだ。
カール大公はこの戦役についてドイツ語で本を書いている。この本はジョミニがフランス語に翻訳しており、その際にジョミニ自身が色々と注をつけた。Nafzigerがさらにそれの英訳本を出しているが、翻訳されているのは全4巻のうち2巻と3巻のみ。戦略戦術に関する一般論を記した1巻と、地図集である4巻は含まれていない。
自費出版(というか単なるコピー本)なので全部を翻訳するのは難しかったのかもしれないが、一部のみ訳したこの手法は読む側にとって少々不便であることは事実。特につらいのが4巻がないことだ。
カール大公の文章は(1)戦場となった地域の地形に関する詳細な説明(2)両軍の具体的な行動(3)講評――の繰り返しである。教科書的で正確さを期するにはいいのかもしれないが、結果として文章中に固有名詞(特に地名)が頻出。地名を追うだけで読む側は一苦労することになる。
地図と照らし合わせながら読めばいいのかもしれないが、上に書いた通り英訳本に地図は含まれていない。Gallica"http://gallica.bnf.fr/"には地図があるがスキャンが下手だったのか肝心な地名が読み取れない。結果として非常に読みにくい文章が続くことになっている。
それでも苦労しながら読んでいる最中なのだが、この1796年ドイツ戦役で最大の分かれ目となったのがカール大公によるドナウ渡河の場面だ。ドナウ北岸のネレスハイムの戦いでモローに敗北したカール大公は、8月13日から14日にかけドナウヴェルトでドナウ南岸に渡った。
しかし、彼はすぐに北岸へ取って返しアンベルク付近にいるヴァルテンスレーベンと合流するつもりだった。それによってヴァルテンスレーベンと対峙しているジュールダンより多くの兵力を集め、彼を叩こうとしたのだ。この計画を進めるべく、カール大公は17日にインゴルシュタットで再度ドナウ河を北へ渡る。
この時点で両軍の戦力を見ると、カール大公自身が率いて北岸へ向かったのが2万8000人。そこに予め布陣していたヴァルテンスレーベンの部隊は3万4000人。合計すれば6万2000人だ。対するジュールダンの軍勢は4万5000人。数で優位に立つことができる。
一方、モローの軍勢は約6万人。それに対するべくドナウ南岸に残されたラトゥールの軍勢は2万人弱だ。カール大公がかなり際どい賭けに出たことが分かる。そして彼はその賭けに勝った。最大の要因はモローの動きが鈍かったことにある。
その鈍さはかなりのものだ。何しろ彼はカール大公がドナウ北岸に戻った後の19日になって初めてカール大公を追うためドナウ南岸へと渡ったのだ。ネレスハイムでカール大公の軍勢を破ってから1週間以上後、カール大公がモローから逃れるべくドナウ河を渡ってからでも5日も経過している。
カール大公の著作によると「モローが敵の動きを知らされたのは21日になってから」だそうで、情報の欠落がこうした決定的な行動の失敗につながったことが分かる。またモローとジュールダンの連携も悪く、「彼らは互いに連絡を確立することも無視した」。「二人のフランス軍将軍は同様に彼らの前にいる部隊の動きに気づかなかった」
カール大公によると、最大の問題は「戦役開始時点から合流することを目指すべきだった」モローとジュールダンがそうした目標を持っていなかったことにある。それに対し、カール大公は何度もヴァルテンスレーベンとの合流とそれによって「決定的な地点で数的優位を確保する」ことを目指していた。ヴュルツブルクなどで計画した合流は失敗に終わったが、それが最後に成功したのがアンベルクだったという訳だ。
もっとも全てカール大公の目論見通りに事が運んだ訳でもない。カール大公はアンベルクでヴァルテンスレーベンの部隊と出会う予定だったが、実際にはヴァルテンスレーベンがアンベルクを放棄しナープ河まで後退していたため、結果として彼の作戦は「アンベルクにいるフランス軍を攻撃する」形になった。もっとも作戦自体は成功したのだが。
数の優位を誇りながら敗北したフランス軍だが、責められるべきはモローとジュールダンばかりではない。Phippsなどはドイツ方面の作戦については総裁政府のカルノーが主導したと指摘しており、それが事実なら現場指揮官たるモローとジュールダンにも言い分があるだろう。実際、ジュールダンは自身も1796年戦役に関する回想録を書いている。カール大公の本を読み終わったら、こんどはそちらにチャレンジするつもりだ。
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