ベルギー国債?

「ベルギー国債だ。オーストリアとの和平条約に、オーストリアが発行したベルギー国債を買い取るとの条項を入れ込んだ。現在、ベルギー国債はうなぎ昇りだ。わたしはそれを見越して二足三文の時に大量買いしていた」
 
 ナポレオン漫画でタレイランが語っていたこの話は、一体どこまで史実なのだろうか。色々と調べてみたのだが、これが実に面倒なことになった。
 最大の問題は、そもそも「ベルギー」なる国がこの当時、存在していなかった点にある。現在あるベルギーという国が生まれたのは1830年"http://en.wikipedia.org/wiki/Belgium"。オランダ王国から独立して成立した国だ。もちろん、ボナパルトが第一執政をやっていた1799~1802年にはそんな国はなかった。ベルギーという国がない以上、ベルギー国債なるものもあり得ないことになる。
 厳密には1790年の1年弱だけ「ベルギー合衆国」"http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_of_Belgium"という国が存在していたことがあった。ただし1月に成立したこの国は12月にはオーストリア軍に制圧されて姿を消している。たとえ彼らが何らかの「債券」を発行したとしても、それの支払いが続くことはあり得なかっただろうし、ましてその債券を鎮圧側にいたオーストリアが発行することもあり得ない。
 実際、日本語ではなく英語やフランス語でこの話に関連する史料を探すと、厳密な意味で「国債」(英語はgovernment bond、フランス語でemprunt d'état)という言葉は見当たらない。たとえばVice and Virtue"http://books.google.co.jp/books?id=V-tHMPutrhYC"には「1801年のリュネヴィル条約はオーストリアに対し、彼らが支配していたかつてのネーデルランドが契約した融資について完済することを強いた」(p126)と書いている。ここで投機の対象となっているのは国債ではなく融資債権だ。
 Talleyrand, une mystification historiqueになると「[リュネヴィル]条約のとある決定が特にタレイランの注意を引いた。それはオーストリア領ネーデルランドについて述べた公的借金[emprunts publics]の先行きに関係していた」(p377)と書かれている。そもそもempruntというフランス語は債券bondとか融資loan、借り入れborrowingなど色々な英語に翻訳される言葉であり、安易に「国債」と訳すのには問題がありそうだ。
 日本語で「ベルギー国債」という言葉を使い出したのはおそらく長塚隆二("http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_talleyrand.htm"の1801年2月分参照)。個人的にはせめて「ベルギー公債」とか「ベルギー債」という翻訳にとどめておいた方がよかったのではないかと思っている。
 
 しかし日本語訳より問題なのは、この話のソースが見当たらない点にある。上に紹介したように20世紀になって出版された伝記の中には確かに「ベルギー公債で一儲け」という話が見られるのだが、これを裏付ける同時代、19世紀の史料が探しても見当たらない。その代わり、「リュネヴィルの和平」や「ベルギー」というキーワードで探すと、実は微妙に違う話が出てくる。
 その「微妙に違う話」は最近の本でも紹介されている。例えば1978年出版のBanquiers, négociants et manufacturiers parisiens du Directoire à l'Empire"http://books.google.co.jp/books?id=gQqGAAAAIAAJ"には「フランス政府によるハプスブルク家のベルギー地域における負債の保証の問題を、タレイランはリュネヴィル条約の中に入れ、そして自ら3300万フローリンを集めた。ジャン・ステルンによればシモン[ブリュッセルの銀行家]とタレイランは半分以下の値段でそれを買い入れ、それから状況の改善を利用して転売し数百万の儲けを得た」(p83)とある。ここではempruntsではなく負債dettesという言葉が使われている。
 時代を遡ると、話はさらに捩れてくる。1911年出版のQuand Barras était roi"http://archive.org/details/quandbarrastait00marqgoog"には「リュネヴィル条約の時、彼[タレイラン]はオーストリア皇帝がベルギーに所有している歳入は全て支払われるとの条項を明記した。その額は3300万フローリンにのぼった。シモンはタレイランにその買い取りを提案し、そして難しさと遅さにも関わらず、転売は多くの利益を生み出した。タレイランは300万、シモンは160万フランを得た」(p118)と書かれている。ここで出てくる用語はempruntsでもdettesでもなくrentes dues。後に出てくる英訳はannuities dueとなっている。annuity dueは一般的に期首払い年金と訳されるようだが、ここでは歳入と訳しておいた。
 この話の淵源はバラスの回想録第4巻"http://archive.org/details/mmoires04barr"にある(英訳は"http://books.google.com/books?id=1gmR_Q2aAdwC" p303-304)。そこにはタレイランがどのような方法でいくら儲けたかを記した一覧がある(なぜバラスの回想録にそんなものが載っているのかは不明)のだが、そこに以下の一文があるのだ。
 
「リュネヴィル条約――条約はジョセフ[・ボナパルト]が署名した。外務大臣だったタレイランは、オーストリア皇帝がベルギーに持つ政府歳入を一括で支払うべきであるという条項を入れた。その額は3300万フローリンにのぼった。ブリュッセルのシモンはタレイランに対し、その買い取りを提案した。その額は当時30%にとどまっていた。彼らは1800万より多くを独占することはできなかったが、オーストリアの支払いは遅かった。彼らは66%になったところで再び売却した。タレイランの分け前は300万フローリンだった。彼はシモンの倍もらっており、後者の目録には160万フランと記されている」
p262
 
 ここでも使われている用語はrentes dues。歳入と訳すか年金と訳すかの問題はあるが、いずれにせよその意味するところは一定期間内に手元に入ってくる収入を指す。一方、empruntやdetteは融資だったり借り入れだったり負債だったりという意味で、要するにどれもこれも債務だ。どう考えても同じものではない。
 つまりこの2つはやはり別の話であり、バラスが回想録に記したものとは別のソースに「ベルギー公債」を巡る投機の話が載っているのだ、と解釈することもできる。ただ、そう考えるとおかしい部分が出てくる。最大の問題は、同じリュネヴィル条約で同じベルギー地域に関連する取り決めに絡んでタレイランが複数の投機をしていたことになってしまう点。おまけにそのどちらにもシモンなる人物が関わっている。偶然の一致というにはあまりに共通項が多すぎるのだ。
 もう一つ、あまり可能性は高くなさそうな解釈もある。この2つの話は実はネタ元が一緒である、という説だ。淵源はバラスの回想録。この回想録の出版は1896年であり、当初は回想録に書かれていたことがそのまま他の本にも引き写されていた。だから1911年出版の本にもrentes duesを巡る投機の話が載っていたのだ。
 だが、バラスの回想録には致命的な弱点があった。リュネヴィル条約にベルギーを巡るrentes dues関連の条項は存在しないのだ。条約の成立過程をまとめたHistoire des négociations diplomatiques relatives aux traités de Lunéville, Tome Deuxième"http://books.google.co.jp/books?id=7TgMAQAAMAAJ"を見れば分かるが、rentes duesという単語を検索しても全く引っかからない。代わりによく出てくるのがempruntsやdettesといった言葉。しかもベルギー絡みの話もその中にはある。
 即ち、リュネヴィル条約においてオーストリア皇帝の「歳入」とか「年金」に関連する取り決めはなかったのだ。交渉の対象になったのは、あくまでベルギー絡みの負債・借り入れの話。そして、同書に掲載されているジョセフがモロー将軍宛に記した手紙の中には「ベルギーの負債はオーストリアが支払った」という言葉が含まれている(p335)。
 要するにバラスの回想録は、条約の成立過程を見る限り間違いだ。そのことに気づいた誰かが、20世紀の途中にバラスが書いていたrentes duesという言葉をdettesあるいはempruntsに書き換えたのではないか、というのが「元ネタ一緒説」。もしかしたらJean Sternが1933年に書いたLe mari de Mademoiselle Lange, Michel-Jean Simons"http://books.google.co.jp/books?id=xnGFHAAACAAJ"あたりが、そうした書き換えの出発点だったのかもしれない(証拠は無いが)。
 
 ではこれは史実だろうか。難しいが、疑わしきは罰せずでいくのなら、少なくとも私が見つけた証拠だけでは史実とはみなせない。バラスが書いている内容には誤りが含まれており、従って書かれていることも信頼性には乏しい。そもそもタレイランによって総裁の座から追い払われたバラスが、その政敵の懐具合について書いた内容がどこまで信じられるかというと、そりゃ信じない方が無難だ。もっと明確な証拠がない限り、タレイランがベルギーの負債を巡る投機で金を儲けたとの説は疑わしい。
 ならばタレイランは清廉潔白だったのか。同時代人の見解に従うなら、全くそんなことはなかった。1805年にフランスから英国に向けて出された匿名の手紙には、リュネヴィル条約に署名する前日、タレイランが軍の契約商人であるコローに情報を伝え、自分の名義で株を買うよう命じたとの話が伝えられている(The secret history of the court and cabinet of St. Cloud"http://books.google.co.jp/books?id=XV0IAAAAQAAJ" p19)。タレイランはベルギー公債ではなく、実は株で儲けていた、のかもしれない。
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