ラ=エイ=サント

 ラ=エイ=サントの陥落時間についてはこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/lahayesainte.html"でも考察しているが、最近になって午後6時より前にラ=エイ=サントが陥落したと述べている古い時期の史料がネット上で見られるようになった。Napoleonic Literature"http://www.napoleonic-literature.com/"に載っている"An Historical Sketch of the Campaign of 1815"がそれだ。
 この本は1820年に第二版が出版されているようで、少なくともワーテルローから5年以内に出版されたと見ていいだろう。著者がその時点でどのくらい正確な一次史料を閲覧できたのかは知る由もないが、少なくとも会戦からまだ間もない時期にラ=エイ=サントの陥落時間が現在の通説よりかなり早く見積もられていたことは注目に値する。

 「ウーグモンに対するあらゆる努力が失敗し、また中央に対するあらゆる試みもラ=エイ=サントを奪えず同様に無駄になりそうであることに気づいたナポレオンは、右翼をキオー将軍の師団に、左翼をバシュリュー将軍に支援されたドンズロー将軍の師団を差し向け、ラ=エイ=サントに対する攻撃を再開した。フランスの軽歩兵は農場の背後まで前進し、稜線の背後に布陣している兵と農場守備隊との連絡を絶った。フランス軍縦隊は防壁に前進し、それを乗り越えようと数回試み、その度に撃退された。バリング少佐と王立ドイツ人部隊第2軽大隊の一部がこの小さな拠点を守備しており、この勇敢な兵たちが最後の弾薬を使い尽くしたところで敵はここを奪取するのに成功した。その頑強な防衛と守備兵から蒙った損害に怒り狂ったフランス兵は、僅かな生き残りを殺害した。この拠点を得るや否や敵はミロー師団の胸甲騎兵の大部隊をラ=エイ=サントとウーグモンの間の谷間に移動させた。彼らはそこでほぼ完全に英軍の砲撃から掩蔽されており、英軍戦線に生じる筈の混乱にすぐさま乗じるべく備えた。今や連合軍の中央に対する一連の攻撃がなされ、いくつかのフランス騎馬砲兵が歩兵と騎兵の掩護下でラ=エイ=サント背後の高地に運ばれ、そして敵は英軍陣地に地歩を固めるべく繰り返し試みた」
Robert Batty "An Historical Sketch of the Campaign of 1815"

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック